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MOLESKINEを使いながら考えた二つのiPhoneアプリ
なんだかSo-netブログの方がまだ残っていたようなので、So-netブログして見てない人(そんな人いないか)のためにリンクだけ
この頃、MOLESKINEを使っていたのは、こういうソフトを作るためだったんですね。
Zeptopad ←自由に描ける白紙ノートのようなiPhoneアプリ
Zeptoliner ← ワープロのようなiPhoneアプリ
人間の脳は右脳と左脳に別れています。
一般に右脳は感性を、左脳は論理を司ると言われています。
感性を炸裂させる道具として白紙のノートが、理性を書き留める道具として、ワープロ(アウトラインプロセッサ)が、それぞれ必要なのではないかと思うのです。
この頃、MOLESKINEを使っていたのは、こういうソフトを作るためだったんですね。
Zeptopad ←自由に描ける白紙ノートのようなiPhoneアプリ
Zeptoliner ← ワープロのようなiPhoneアプリ
人間の脳は右脳と左脳に別れています。
一般に右脳は感性を、左脳は論理を司ると言われています。
感性を炸裂させる道具として白紙のノートが、理性を書き留める道具として、ワープロ(アウトラインプロセッサ)が、それぞれ必要なのではないかと思うのです。
未来を予見する次善の方法
未来を予見する最前の方法は、かつてアラン・ケイが語った有名な台詞によってよく知られています。
「The best way to predict the future is to invent it (未来を予見する最前の方法はそれを発明すること)」
最前があるということは、それ以外もあるということです。
では次善の方法はなんでしょうか。
僕は、過去を振り返ることだと思います。
過去を振り返り、現代に適用し、新しい道を探す。
過去には無数のヒントが隠されています。
過去のある時点ではブレイクできなかったものの、その後の製品に絶大な影響を与えた概念がリファインして復活することも良くあります。
また、過去の時点においてブレイクできなかった原因を解明していくことで、それが根本的な考えの過ちだったのか、一時的な流行だったのか、勘違いだったのか、といったことがわかります。
戦争とは、人間の競争という、原理に根ざした普遍的なものであるからこそ、孫氏の兵法や戦争論の基本的な考え方が現代戦にも適用できるのと同じように、科学技術の方向性の予測や予見というものも、人間の欲望や文化に深い影響を与えるものですから、戦争と同様に技術戦略や科学の発展の方向性にも普遍的な法則があるように思います。
たとえば紙の発明からグーテンベルグの活版印刷、そこから発達していったことを振り返ると、当時の製紙産業はとてつもないハイテク産業だったことが想像できます。
それまでは書き写すしかなかった情報を、大量印刷できるわけですから、それはとてつもない情報革命です。
そう、ちょうど今のWebのように。
最初は聖書の印刷かなにか、要するに絶対必要なものに使われ、戦争のマニュアルの印刷に使われ、そしてタイプライターが発明され、写真製版が発明され、電子組版に至って、DTP化され、現在はその媒体がWebに変化しました。
情報媒体としての紙は、そうした「必要不可欠」なものだけではなく、思考をまとめたり、書簡にして誰かに送ったり、手帳として考えをまとめたりといったことにも使われています。
これを現代に適用すると、Web上にあるものはほとんど全て、紙にあるものをWeb上に再現しようという試みであることに気づきます。
異なるのは、アニメーションやゲームなどですが、そもそも紙という媒体が11〜16世紀(紀元ははっきりしていない)の当時で用いられたときの衝撃を考えてみると、動画やゲームなどといった要素はWebにとっては飾りなのです。
動画やゲームなどの登場によって情報媒体が"本質的に"変化したわけではなく、単に不足している情報をより具体化したり、詳細化したりしただけであって、そこは竹簡に筆でさらさらと何かをかいたり、アルタミラの洞窟に落書きをしたりしたのと本質的には変わらない。
伝えたいのは、書き手の頭のなかにある物語であり、価値観であり、視点であり、感動であって、それをどんな媒体を通して他者に伝えるか、それもどれだけ広く伝えるか、またはどれだけ限定的に伝えるか、どのように伝えるか、その手段が発達してきたに過ぎません。
歌、言語、壁画、口伝による物語、聖書、会議、活版印刷、タイプライター、手紙、カラー印刷、Web、Flashというのは、人類が発生した頃から脈々と続く"他者と共感したい"という意識が生み出した多様な手段の進化の流れなのです。
その過程でさまざまなものへと派生したり、他の概念として捉えられたり、要するにどんな視点からでも見ることが出来るのですが、「伝えたい」という意思を形として表すと、結局のところそういうことになるのです。
僕は社会人になってから、歴史を勉強するのが好きになりました。
科学史や哲学史はとても面白い分野です。
Lispを再度勉強してみて、益々過去に興味が湧いてきました。
ニュートンやタブレットPCなど、何度も失敗している技術も、成熟を待っているだけなのか、それとも本当に駄目なのかはまだわかりませんが、そういうものをみると、本能的にわくわくしてきてしまいます。
忘れていた過去にこそ未来へのヒントがあると思うと、考古学というのも面白いものです。
結局、全ての学問は人間性の本質を問うところにいきつくのですね。
「The best way to predict the future is to invent it (未来を予見する最前の方法はそれを発明すること)」
最前があるということは、それ以外もあるということです。
では次善の方法はなんでしょうか。
僕は、過去を振り返ることだと思います。
過去を振り返り、現代に適用し、新しい道を探す。
過去には無数のヒントが隠されています。
過去のある時点ではブレイクできなかったものの、その後の製品に絶大な影響を与えた概念がリファインして復活することも良くあります。
また、過去の時点においてブレイクできなかった原因を解明していくことで、それが根本的な考えの過ちだったのか、一時的な流行だったのか、勘違いだったのか、といったことがわかります。
戦争とは、人間の競争という、原理に根ざした普遍的なものであるからこそ、孫氏の兵法や戦争論の基本的な考え方が現代戦にも適用できるのと同じように、科学技術の方向性の予測や予見というものも、人間の欲望や文化に深い影響を与えるものですから、戦争と同様に技術戦略や科学の発展の方向性にも普遍的な法則があるように思います。
たとえば紙の発明からグーテンベルグの活版印刷、そこから発達していったことを振り返ると、当時の製紙産業はとてつもないハイテク産業だったことが想像できます。
それまでは書き写すしかなかった情報を、大量印刷できるわけですから、それはとてつもない情報革命です。
そう、ちょうど今のWebのように。
最初は聖書の印刷かなにか、要するに絶対必要なものに使われ、戦争のマニュアルの印刷に使われ、そしてタイプライターが発明され、写真製版が発明され、電子組版に至って、DTP化され、現在はその媒体がWebに変化しました。
情報媒体としての紙は、そうした「必要不可欠」なものだけではなく、思考をまとめたり、書簡にして誰かに送ったり、手帳として考えをまとめたりといったことにも使われています。
これを現代に適用すると、Web上にあるものはほとんど全て、紙にあるものをWeb上に再現しようという試みであることに気づきます。
異なるのは、アニメーションやゲームなどですが、そもそも紙という媒体が11〜16世紀(紀元ははっきりしていない)の当時で用いられたときの衝撃を考えてみると、動画やゲームなどといった要素はWebにとっては飾りなのです。
動画やゲームなどの登場によって情報媒体が"本質的に"変化したわけではなく、単に不足している情報をより具体化したり、詳細化したりしただけであって、そこは竹簡に筆でさらさらと何かをかいたり、アルタミラの洞窟に落書きをしたりしたのと本質的には変わらない。
伝えたいのは、書き手の頭のなかにある物語であり、価値観であり、視点であり、感動であって、それをどんな媒体を通して他者に伝えるか、それもどれだけ広く伝えるか、またはどれだけ限定的に伝えるか、どのように伝えるか、その手段が発達してきたに過ぎません。
歌、言語、壁画、口伝による物語、聖書、会議、活版印刷、タイプライター、手紙、カラー印刷、Web、Flashというのは、人類が発生した頃から脈々と続く"他者と共感したい"という意識が生み出した多様な手段の進化の流れなのです。
その過程でさまざまなものへと派生したり、他の概念として捉えられたり、要するにどんな視点からでも見ることが出来るのですが、「伝えたい」という意思を形として表すと、結局のところそういうことになるのです。
僕は社会人になってから、歴史を勉強するのが好きになりました。
科学史や哲学史はとても面白い分野です。
Lispを再度勉強してみて、益々過去に興味が湧いてきました。
ニュートンやタブレットPCなど、何度も失敗している技術も、成熟を待っているだけなのか、それとも本当に駄目なのかはまだわかりませんが、そういうものをみると、本能的にわくわくしてきてしまいます。
忘れていた過去にこそ未来へのヒントがあると思うと、考古学というのも面白いものです。
結局、全ての学問は人間性の本質を問うところにいきつくのですね。
No Imagination No Future:想像なくして未来なし
僕の仕事の半分は未来を予想することです。
残りの半分は未来を実装することです。
予想があって、実装がある。このサイクルは両方ないとうまくいきません。
実装するから予想できて、予想するから廃れない技術を実装できるのです。
ところが昔にくらべると「未来はこうなる」式の話をあまり見かけない気がしています。
これは僕が年を取ったこととも関係しているのだと思いますが、例えば僕が中学生くらいの頃は少なくとも
・無線通信
・超伝導
・核融合
・風力発電
・ニューラルネット
・人工知能
・人型ロボット
・リニアモーターカー
・マイクロマシン
・火星探査
・ボイジャー二号
・宇宙旅行
あたりは毎月の雑誌に載るくらいにはホットな話題だったように思います。
それはたぶん、僕が読んでいる雑誌が、「子供の科学」から「日経サイエンス」へ、そして現在はCNet Japanへと変化してしまったことと無関係ではないでしょう。
いつのまにか最先端の技術については疎くなっているような気がするのです。
子供の頃に「未来はこうなる」式に語られたビジョンは、ユートピア的なもの(未来の家は電子化されていて帰る時間になると自動的に風呂が沸いてるとか)からディストピア的なもの(未来の地球は環境破壊が進んで宇宙服を着て歩かないと肌が焼けて死ぬとか)までいろいろありました。
最近、全くそういう話を聞かなくなったのは、僕が夢のない大人になってしまったせいでしょうか。
ここ数年、耳にした新技術・新素材は、恥ずかしながら以下のようなものしかありません。
・有機EL
・カーボンナノチューブ
・燃料電池
・ナノマシン
・UWB
・WiMAX
・Flash Player 10(!?)
・次世代携帯電話
・量子ワープ
・セマンティックウェブ(最新?)
・Web2.0
・着用型ロボット
・家庭用ロボット
・ハイブリッドエンジン
・宇宙旅行
・ヘテロジニアスマルチコア
・メニーコア
なんか昔にくらべると異様に現実的なものしか見てないことに我ながら愕然とします。
要するに自分の視野が狭くなっているのです。
Web2.0が最新技術かというと、既存の技術の再定義なのでどちらかというと技術用語というより文化用語のような気がしてかなり疑問ですし、UWBもWiMAXも既に存在しているものなので、いまさらなにをという気もするのですが、本当に新しい話を聞かない。さらにインテルがマルチコア化に行ったり、nVidiaがCUDAで128コアのGPUをハイパフォーマンスコンピューティングに利用したりという話はあるものの、実際にそれが未来でどうなるのか、という具体像についてはあまり描けていないのが実情ではないでしょうか。
20年前に夢物語だったことはどんどん現実化し、確かに進化している部分は沢山あるのですが、反対に忘れられつつあることも沢山あって、たとえば常温核融合とか、超伝導とか、最近あまり話題に登らないのは、ダメだったという結論になってしまったか、知らないうちに実現していたか既に諦めたかのどちらかなのかもしれません。
とにかく、昔にくらべると圧倒的に夢がない。世間というより僕が。
3年先くらいのことは想像できますが、5年先となるとぼやけてしまう。
もっと言えば、10年後なんて想像もつかない。
なぜかというと、未来の共通認識がないからです。
例えば僕より20歳くらい上の世代になると、「2001年宇宙の旅」を見て理系に進んだ人というのが沢山います。
「2001年宇宙の旅」は、映画としてはとっても眠くなる映画だし、テーマも重すぎてわけがわからない。けれども絶大な支持を集めた映画なんです。
これは、IBMを初めとする当時の世界を代表する企業の科学者達が、「2001年の宇宙の旅」というものをできるだけ性格に予想し、「未来はこうなる」という強烈な図式を示したことが、不思議なリアリティに繋がり、とても説得力を持って観客に訴えかけたのだと思います。
それで、SFというのは、現実を追い越してしまった。
2001年宇宙の旅で描かれるような有人木星探査はいまのところ夢のまた夢です。
HAL-9000のような高度な人工知能はやっぱり夢のまた夢です。HAL-9000は設定によると1992年に生まれることになっています。
映画「2001年」は、あくまでも60年代の未来観であったのです。
1968年に映画が公開された頃は、30年後には当たり前のように宇宙を旅しているだろう、という予想のもとでこの映画が作られたわけですが、現実にはもっと退屈な30年間でした。
1968年といえば、日本ではテレビの全国のカラー放送化がちょうど終わった年で、それから40年近い月日が流れているにもかかわらず、科学的に派手な進歩は少なく、町並みは大きく様変わりしましたが、とはいえクルマが空を飛ぶほどには変わっていないわけです。
これは、攻殻機動隊の描く未来の2030年の世界で空飛ぶクルマはなくなってしまった話と微妙にシンクロするかもしれませんが、とにかく「世の中はもっと静かにゆっくりと変化していく」という感覚が生まれていったことは非常に面白いことです。
それと、特に日本がそうですが、圧倒的にSFの新作が少なくなっているような気がします。
Wikipediaの説明を見ると、SFは1980年代のポストサイバーパンクでとぎれています。
セカンドライフの元ネタとして知られ、かなり新鮮に映るニール・スティーヴンスンの「スノウ・クラッシュ」ですら、1992年の作品ですから、実に16年前です。
既に80年代には「あと20年しかないし、どうやらクルマは空を飛んでくれないらしい」というある意味で悲観的な世界観の変化があって、宇宙からネットワークへとその舞台を移した。ところがそのネットワークへと舞台を移すと、とたんに作品の数が減るのです。
「宇宙もの」というSFのジャンルで探すと、「スターウルフ」「宇宙のスカイラーク」「レンズマン」「宇宙英雄ペリー・ローダン」などなど、沢山の名シリーズが出てきます。
しかし、サイバーパンクもので有名なシリーズといえば、わずかに「ニューロマンサー」「クローム襲撃」「モナリザ・オーヴァドライブ」の「スプロール三部作」があるのみ。
いや、他にもあるのかもしれないし、僕も別にSFマガジンを毎月読むほどの熱心なSF者ではないから、隠れた名シリーズがあるのかもしれない(ああ、たとえばミルキーピア物語とか)けど、それでも昔にくらべて圧倒的に減ってしまったな、と。
「敵は海賊」シリーズは微妙にサイバーパンクっぽい要素は入っていたし、「戦闘要請雪風」はサイバーパンクではないけれども、コンピュータ間の通信の描写が実に細かかった。
2003年発表の「マルドゥック・スクランブル」も面白いけど、もうSFというより魔法モノみたいになってるし(事実、進歩した科学は魔法と区別が付かないわけだ)、これが未来だとはあまり思えない。
ではどうしてこうなっているのか。
ひとつには、昔と違って、科学者が小説を書いていないのではないか、または科学者がそもそもSFと呼ばれる作品の中でどんどん出てこなくなっているのではないか、という気がするわけです。
特にアシモフはコロンビア大学の博士号を持っているし、そうした知見の鋭さなどが明らかに作品性に反映されていた一方で、「アシモフの科学エッセイ」と称した科学紹介もしていますし、ルーディ・ラッカーも数学者で人工知能の研究者です。
SFであるからには、科学的根拠(らしきもの)に根ざした未来予想というのもひとつの作品性だと思うのですが、これを達成するには要するに本当に科学者でなければいけないわけです。
少なくとも科学技術をある程度知っていて、その発展の可能性をさらに見極めないといけない。
良くも悪くも今は人類の進歩の踊り場に来てるような肌感覚があります。
科学技術の進歩の踊り場であっても、代わりに文化や経済が発達しますから、それはそれで大いにやっていただきたいわけですが、科学技術に関わる者として、この状況はいかんともしがたく、実にもどかしいわけです。
攻殻機動隊によって描かれる未来は、ディストピアのようなユートピアで、マトリックスで描かれるのは一見ユートピアに見えるにディストピア。
昔からSFも、ホラーSFと明るいSFの二種類が交互に流行したので、そろそろ明るいSFが読みたい。
でもいつまでたってもそれが出てこないので、自分で未来のネタを探しに行こうと思います。
このブログの読者の方のなかで、「これは未来だ」「未来はこうなる!」「こうなって欲しい」と思っていらっしゃる方、お気軽にトラバかメール下さい。info @ uei.co.jpまで。
残りの半分は未来を実装することです。
予想があって、実装がある。このサイクルは両方ないとうまくいきません。
実装するから予想できて、予想するから廃れない技術を実装できるのです。
ところが昔にくらべると「未来はこうなる」式の話をあまり見かけない気がしています。
これは僕が年を取ったこととも関係しているのだと思いますが、例えば僕が中学生くらいの頃は少なくとも
・無線通信
・超伝導
・核融合
・風力発電
・ニューラルネット
・人工知能
・人型ロボット
・リニアモーターカー
・マイクロマシン
・火星探査
・ボイジャー二号
・宇宙旅行
あたりは毎月の雑誌に載るくらいにはホットな話題だったように思います。
それはたぶん、僕が読んでいる雑誌が、「子供の科学」から「日経サイエンス」へ、そして現在はCNet Japanへと変化してしまったことと無関係ではないでしょう。
いつのまにか最先端の技術については疎くなっているような気がするのです。
子供の頃に「未来はこうなる」式に語られたビジョンは、ユートピア的なもの(未来の家は電子化されていて帰る時間になると自動的に風呂が沸いてるとか)からディストピア的なもの(未来の地球は環境破壊が進んで宇宙服を着て歩かないと肌が焼けて死ぬとか)までいろいろありました。
最近、全くそういう話を聞かなくなったのは、僕が夢のない大人になってしまったせいでしょうか。
ここ数年、耳にした新技術・新素材は、恥ずかしながら以下のようなものしかありません。
・有機EL
・カーボンナノチューブ
・燃料電池
・ナノマシン
・UWB
・WiMAX
・Flash Player 10(!?)
・次世代携帯電話
・量子ワープ
・セマンティックウェブ(最新?)
・Web2.0
・着用型ロボット
・家庭用ロボット
・ハイブリッドエンジン
・宇宙旅行
・ヘテロジニアスマルチコア
・メニーコア
なんか昔にくらべると異様に現実的なものしか見てないことに我ながら愕然とします。
要するに自分の視野が狭くなっているのです。
Web2.0が最新技術かというと、既存の技術の再定義なのでどちらかというと技術用語というより文化用語のような気がしてかなり疑問ですし、UWBもWiMAXも既に存在しているものなので、いまさらなにをという気もするのですが、本当に新しい話を聞かない。さらにインテルがマルチコア化に行ったり、nVidiaがCUDAで128コアのGPUをハイパフォーマンスコンピューティングに利用したりという話はあるものの、実際にそれが未来でどうなるのか、という具体像についてはあまり描けていないのが実情ではないでしょうか。
20年前に夢物語だったことはどんどん現実化し、確かに進化している部分は沢山あるのですが、反対に忘れられつつあることも沢山あって、たとえば常温核融合とか、超伝導とか、最近あまり話題に登らないのは、ダメだったという結論になってしまったか、知らないうちに実現していたか既に諦めたかのどちらかなのかもしれません。
とにかく、昔にくらべると圧倒的に夢がない。世間というより僕が。
3年先くらいのことは想像できますが、5年先となるとぼやけてしまう。
もっと言えば、10年後なんて想像もつかない。
なぜかというと、未来の共通認識がないからです。
例えば僕より20歳くらい上の世代になると、「2001年宇宙の旅」を見て理系に進んだ人というのが沢山います。
「2001年宇宙の旅」は、映画としてはとっても眠くなる映画だし、テーマも重すぎてわけがわからない。けれども絶大な支持を集めた映画なんです。
これは、IBMを初めとする当時の世界を代表する企業の科学者達が、「2001年の宇宙の旅」というものをできるだけ性格に予想し、「未来はこうなる」という強烈な図式を示したことが、不思議なリアリティに繋がり、とても説得力を持って観客に訴えかけたのだと思います。
それで、SFというのは、現実を追い越してしまった。
2001年宇宙の旅で描かれるような有人木星探査はいまのところ夢のまた夢です。
HAL-9000のような高度な人工知能はやっぱり夢のまた夢です。HAL-9000は設定によると1992年に生まれることになっています。
映画「2001年」は、あくまでも60年代の未来観であったのです。
1968年に映画が公開された頃は、30年後には当たり前のように宇宙を旅しているだろう、という予想のもとでこの映画が作られたわけですが、現実にはもっと退屈な30年間でした。
1968年といえば、日本ではテレビの全国のカラー放送化がちょうど終わった年で、それから40年近い月日が流れているにもかかわらず、科学的に派手な進歩は少なく、町並みは大きく様変わりしましたが、とはいえクルマが空を飛ぶほどには変わっていないわけです。
これは、攻殻機動隊の描く未来の2030年の世界で空飛ぶクルマはなくなってしまった話と微妙にシンクロするかもしれませんが、とにかく「世の中はもっと静かにゆっくりと変化していく」という感覚が生まれていったことは非常に面白いことです。
それと、特に日本がそうですが、圧倒的にSFの新作が少なくなっているような気がします。
Wikipediaの説明を見ると、SFは1980年代のポストサイバーパンクでとぎれています。
セカンドライフの元ネタとして知られ、かなり新鮮に映るニール・スティーヴンスンの「スノウ・クラッシュ」ですら、1992年の作品ですから、実に16年前です。
既に80年代には「あと20年しかないし、どうやらクルマは空を飛んでくれないらしい」というある意味で悲観的な世界観の変化があって、宇宙からネットワークへとその舞台を移した。ところがそのネットワークへと舞台を移すと、とたんに作品の数が減るのです。
「宇宙もの」というSFのジャンルで探すと、「スターウルフ」「宇宙のスカイラーク」「レンズマン」「宇宙英雄ペリー・ローダン」などなど、沢山の名シリーズが出てきます。
しかし、サイバーパンクもので有名なシリーズといえば、わずかに「ニューロマンサー」「クローム襲撃」「モナリザ・オーヴァドライブ」の「スプロール三部作」があるのみ。
いや、他にもあるのかもしれないし、僕も別にSFマガジンを毎月読むほどの熱心なSF者ではないから、隠れた名シリーズがあるのかもしれない(ああ、たとえばミルキーピア物語とか)けど、それでも昔にくらべて圧倒的に減ってしまったな、と。
「敵は海賊」シリーズは微妙にサイバーパンクっぽい要素は入っていたし、「戦闘要請雪風」はサイバーパンクではないけれども、コンピュータ間の通信の描写が実に細かかった。
2003年発表の「マルドゥック・スクランブル」も面白いけど、もうSFというより魔法モノみたいになってるし(事実、進歩した科学は魔法と区別が付かないわけだ)、これが未来だとはあまり思えない。
マルドゥック・スクランブル―The First Compression 圧縮 (ハヤカワ文庫JA)
- 作者: 冲方 丁
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2003/05
- メディア: 文庫
ではどうしてこうなっているのか。
ひとつには、昔と違って、科学者が小説を書いていないのではないか、または科学者がそもそもSFと呼ばれる作品の中でどんどん出てこなくなっているのではないか、という気がするわけです。
特にアシモフはコロンビア大学の博士号を持っているし、そうした知見の鋭さなどが明らかに作品性に反映されていた一方で、「アシモフの科学エッセイ」と称した科学紹介もしていますし、ルーディ・ラッカーも数学者で人工知能の研究者です。
SFであるからには、科学的根拠(らしきもの)に根ざした未来予想というのもひとつの作品性だと思うのですが、これを達成するには要するに本当に科学者でなければいけないわけです。
少なくとも科学技術をある程度知っていて、その発展の可能性をさらに見極めないといけない。
良くも悪くも今は人類の進歩の踊り場に来てるような肌感覚があります。
科学技術の進歩の踊り場であっても、代わりに文化や経済が発達しますから、それはそれで大いにやっていただきたいわけですが、科学技術に関わる者として、この状況はいかんともしがたく、実にもどかしいわけです。
攻殻機動隊によって描かれる未来は、ディストピアのようなユートピアで、マトリックスで描かれるのは一見ユートピアに見えるにディストピア。
昔からSFも、ホラーSFと明るいSFの二種類が交互に流行したので、そろそろ明るいSFが読みたい。
でもいつまでたってもそれが出てこないので、自分で未来のネタを探しに行こうと思います。
このブログの読者の方のなかで、「これは未来だ」「未来はこうなる!」「こうなって欲しい」と思っていらっしゃる方、お気軽にトラバかメール下さい。info @ uei.co.jpまで。
UEI、春の求人フェスティバル
御陰さまで商売繁盛で、今年も求人の季節がやってきました。
今回の募集は、プログラマ、法人サポート、Webデザイナーの三職種。
特にプログラマは、通常は募集していない、未踏研究を専任する学生アルバイトを中心にした募集です。まだ誰も見たことがないような新しいサービスをあなたの手で創り出しましょう。
熱い志を持った人を待っています。
プログラマの求人
Webデザイナーの求人
法人サポートの求人
今回の募集は、プログラマ、法人サポート、Webデザイナーの三職種。
特にプログラマは、通常は募集していない、未踏研究を専任する学生アルバイトを中心にした募集です。まだ誰も見たことがないような新しいサービスをあなたの手で創り出しましょう。
熱い志を持った人を待っています。
プログラマの求人
Webデザイナーの求人
法人サポートの求人
アイデアノートのためのMOLESKINE選び
さて、そもそもなぜ無印に買いに行ったのかというと、それを思い立ったとき、既に夜になっていたからでした。
9時閉店の無印に滑り込み、件の買い物をしたわけです。
日曜日に再びノート探しの旅に出かけました。
そもそも今回のコトの発端は、近藤君がモレスキンを使っているのをみたところに始まります。
つまりモレスキンが欲しかったけど、他のモノでもいいやと思って無印に行った、と。
で、無地ノートの奥の深さに気づいて再びMOLESKINEを求めて東京の街を彷徨いました。
MOLESKINEとは、かのアンリ・マティスや、フィンセント・ゴッホ、アーネスト・ヘミングウェイが愛用したという、200年の歴史を持つノートです。
インディ・ジョーンズ最後の聖戦でジョーンズの親父が使っていたノートはどうもこのMOLESKINEらしい。
こんなもの、新潟には売ってなかった。
ということで、ココで会ったが百年目。手当たり次第に勝ってみました。
ではお買い物をご紹介
まずはオーソドックスな横型
ピカソあたりが使うと右のようになるみたいです。
というかピカソはノート以前に絵筆も持ち歩いていたということにビックリです。
そして個人的には嬉しい縦型
縦型のノートは結構少なく、しかしWebやケータイの画面のように縦長のものを描くときは縦型の方が重宝します。
何かを描くときにひとつのページに集中できるので、情報が断片的にまとまりやすい。
横向きにすれば、横長のものも描くことが出来て便利です。
つまり縦型のノート = タテヨコ両方に使えるノートということです。
これが横型のノートだと、どうしても横にして使うと読みにくくなってしまいます。
ただ、縦型のノートを縦に使った場合は、片面にしか記入しないので少々勿体ないことになる、という問題もあります。
変わり種としては、Storyboard Notebookという形式があります。
これ、週刊誌4コマノート・ミニのMOLESKINE版ですよ。
中身はこんなふうになっています
4コマ+空欄があるので、演出メモとか台詞とかを描くことが出来ます。
これはハリウッドの監督方向の人には嬉しい?
ゲームの絵コンテなど、好きに使えそうです。
こういう、コマだけのページもあり、これは本当にストーリーボードというか、イメージを描くための場所なんでしょうね。
しかし、どうしても最後に立ちはだかるのは電子化されていないという弊害です。
そこで、airpen2を買ってきて、MOLESKINEと組み合わせてみました。
なんか突然巨大になりますが、ちゃんと電子化できます。
しかしこれとスキャナで取り込むのとどっちがマシかと言われると迷います。
昔から何度も電子化の問題にぶちあたってるんですよね。
また、余談ですがMOLESKINEにはCITY NOTEBOOKという、ガイドブックとノートが一緒になったものもあるみたいです。
Moleskine City Guidebook
けっこう、海外に行ったときに、地図に書き込みをしたいタイミングがあります。
例えば「ここに戻ってくる」とか、「この建物に行きたい」とかというのをネットで調べて、地図に書き込んで、それから出発するわけです。でないと限られた時間で見たいものを見るのは難しいですからね。
このシティガイドブックなら、書き込むことが前提になっているから使いやすそうですし、それぞれの土地に行った思い出をひとつの本としてまとめておけるので、再び訪れたときも「前回来たときはどの店に行ったんだっけ?」ということを容易に思い出すことが出来そうです。これは逸品。
店の種類ごとにタグ付けすることもできます。
4月にロンドンとミラノに行く予定なので、これも買っておこうかと思います。
9時閉店の無印に滑り込み、件の買い物をしたわけです。
日曜日に再びノート探しの旅に出かけました。
そもそも今回のコトの発端は、近藤君がモレスキンを使っているのをみたところに始まります。
つまりモレスキンが欲しかったけど、他のモノでもいいやと思って無印に行った、と。
で、無地ノートの奥の深さに気づいて再びMOLESKINEを求めて東京の街を彷徨いました。
MOLESKINEとは、かのアンリ・マティスや、フィンセント・ゴッホ、アーネスト・ヘミングウェイが愛用したという、200年の歴史を持つノートです。
インディ・ジョーンズ最後の聖戦でジョーンズの親父が使っていたノートはどうもこのMOLESKINEらしい。
こんなもの、新潟には売ってなかった。
ということで、ココで会ったが百年目。手当たり次第に勝ってみました。
ではお買い物をご紹介
まずはオーソドックスな横型
ピカソあたりが使うと右のようになるみたいです。
というかピカソはノート以前に絵筆も持ち歩いていたということにビックリです。
そして個人的には嬉しい縦型
Moleskine Plain Reporter Notebook
- 作者:
- 出版社/メーカー: Moleskine
- 発売日: 2008/01/30
- メディア: Imitation Leather
縦型のノートは結構少なく、しかしWebやケータイの画面のように縦長のものを描くときは縦型の方が重宝します。
何かを描くときにひとつのページに集中できるので、情報が断片的にまとまりやすい。
横向きにすれば、横長のものも描くことが出来て便利です。
つまり縦型のノート = タテヨコ両方に使えるノートということです。
これが横型のノートだと、どうしても横にして使うと読みにくくなってしまいます。
ただ、縦型のノートを縦に使った場合は、片面にしか記入しないので少々勿体ないことになる、という問題もあります。
変わり種としては、Storyboard Notebookという形式があります。
これ、週刊誌4コマノート・ミニのMOLESKINE版ですよ。
中身はこんなふうになっています
4コマ+空欄があるので、演出メモとか台詞とかを描くことが出来ます。
これはハリウッドの監督方向の人には嬉しい?
ゲームの絵コンテなど、好きに使えそうです。
こういう、コマだけのページもあり、これは本当にストーリーボードというか、イメージを描くための場所なんでしょうね。
しかし、どうしても最後に立ちはだかるのは電子化されていないという弊害です。
そこで、airpen2を買ってきて、MOLESKINEと組み合わせてみました。
なんか突然巨大になりますが、ちゃんと電子化できます。
しかしこれとスキャナで取り込むのとどっちがマシかと言われると迷います。
昔から何度も電子化の問題にぶちあたってるんですよね。
また、余談ですがMOLESKINEにはCITY NOTEBOOKという、ガイドブックとノートが一緒になったものもあるみたいです。
Moleskine City Guidebook
けっこう、海外に行ったときに、地図に書き込みをしたいタイミングがあります。
例えば「ここに戻ってくる」とか、「この建物に行きたい」とかというのをネットで調べて、地図に書き込んで、それから出発するわけです。でないと限られた時間で見たいものを見るのは難しいですからね。
このシティガイドブックなら、書き込むことが前提になっているから使いやすそうですし、それぞれの土地に行った思い出をひとつの本としてまとめておけるので、再び訪れたときも「前回来たときはどの店に行ったんだっけ?」ということを容易に思い出すことが出来そうです。これは逸品。
店の種類ごとにタグ付けすることもできます。
4月にロンドンとミラノに行く予定なので、これも買っておこうかと思います。
無印良品で無地のアイデア醸成ノートを探す
抽象概念を整理するときや、ユーザーインターフェースを考えようというフェーズでは、やはり紙に書くのが一番です。
なかでも僕は無地の紙に書くのが大好きです。
旅先などで急にノートを探すと、罫線の入っているモノしか買えないのですが、罫線はアイデアを考えるときに結構邪魔です。だから「お絵かき帳」や「計算用紙」みたいなものに絵を描くことが多いです。これはもう小学校に入る前からずっと続いている習慣です。
ふと、最近そのフェーズに入ったので、ひさしぶりに無印良品に行きました。
ちょっと見ない間に、無地のノートが沢山出ていて驚きました。
僕が子供の頃は、無地のノートを探すのはとても大変だったのです。
思わず沢山買ってしまったので、軽〜くレビューなんかを。
まず、文庫本ノート(147円)。
ポケットに入れて持ち歩けそうな感じが良いですね。
値段も手頃な割には製本がしっかりしているのでこのサイズの計算用紙にありがちな「一所懸命書いてたらパラパラになっちゃう」なんてことがなくて良い感じです。
でもいかんせん、文庫本の性質のせいか、真ん中あたりに書こうとするととてつもなく邪魔です。
平面的な制約ではなくて物理的な制約を受けます。
まあでも、インディ・ジョーンズのお父さんが書いていた聖杯ノートってこんな感じでしたよね。
そういうものへの憧れを思い起こさせるので思わず購入。
まあこの開いた感じがまさしく「文庫本」なんですけど、モノとして美しくても実用性を阻害するのはいただけません。
まあ安いし、あくまで非常用と考えるべきですね。
いわゆる無地のキャンパスノート。
開きやすいから書きやすいし、B5版が五冊セットで210円、A5版が5冊セットで189円とべらぼうに安い。こんなに安いならプロジェクトごとに別のノートにしてもいいくらい(だけど、そうすると、途中で使わなくなったノートが増えてしまって勿体ない)。
むかしこういうノートが欲しくて欲しくてたまらなかったけど、どこにも売ってなかったというのに、良い時代になったものです。
マインドマップブーム(僕自身はマインドマップはあまりすきじゃないけど)のお陰で無地ノートの需要が増したのでしょうか。
リング式ノート(ダブルリングノート A5ドット方眼 420円)。これは無地の奴(ダブルリングノート B5 168円)とドット方眼のやつの二種類ありました。これも両方購入。
ドット方眼は普通の方眼と同じ役目を持ちながら、ドットだから罫線が目立たなくて良い感じ。これもある種の発明と言えるかもしれません。
無地ノートが好きな人が考えた方眼っぽいなあ。
けど、やっぱりノートに邪魔な罫線があるのは気持ち悪いので、無地のダブルリング式ノートも購入。
リング式の長所はズバリ、破れること。
アイデアを書いて、ビリっと破いて相手に渡せる。
コレ、会議とかでけっこう便利です。
僕がいままでに作った製品の半分くらいは、ホワイトボードに書き殴ったり、無地のノートに書き殴ったりした僕の落書きを技術者やデザイナーに見せて、それを製品化したものです。
だから僕にとっては無地のノートは自分の思考をまとめる道具というだけではなく、コミュニケーションツールでもあるわけです。
そういう意味でリング式は偉大。破いて渡せるという点がとても偉大。
キャンパスノートと同様。リング式は完全に開いて書けるのでスペースを無駄なく使えます。
そして「なんだこれは!」と思って思わず買ってしまったのが次の商品
これは週刊誌4コマノート・ミニ(A5版 95円)。
まずこの発想に脱帽。
一体なにがどうして週刊誌の4コマを描く専用のノートを販売しようと思ったのか。
この商品を企画した人は大天才かあちら側にいる人かのどちらかだと思います。
で、僕はもうこれを凄い驚きと歓喜をもって受け入れたい。
なぜか?
罫線は邪魔だと言いましたが、例外もあるのです。
このくらいの大きい長方形が描いてあると、これは「画面」に見立てることが出来ます。
お絵かきブレストでもよく長方形を描いてから考え始めたりします。
このノートは最初からその長方形が沢山書き込まれているので、画面デザインのアイデアを練るときにはとてつもなく重宝しそうな予感がします。
こんなふうに縦にして使うと、Webやケータイの画面っぽいものの枠になりますし、横にして使うとFlashやゲーム機の画面のように使えます。
枠外に矢印を描けば、簡単なサイトフローを描くこともできそうです。
凄い発明だこれは!
ミニじゃないのを探したのですが、有楽町のMUJIでは見つかりませんでした。
大きい奴のも今度さがしてみます。
いやあ、しかし、本当にいろいろでているんですねえ。
こんな素敵なノートを持ち歩きつつ、アイデアをまとめつつ、いろいろ思索にふける、なんて想像するだけでちょっとワクワクしてきました。
そうそう。最後にこのノートを持ち歩くためのケース(バッグインバッグ 1785円)を買いました。
これが思いも掛けず、Macbook Airにピッタリの大きさ!まるであつらえたかのようです。
ちょうどMacbook Airのインナーケースを探していたところだったのでちょうど良かった。
これで無地ノートとノート型Macの両方がひとつのケースに収まります。まさに奇跡の邂逅。
来週はこのセットで颯爽とアイデアを練ったりしたいと思います。
なかでも僕は無地の紙に書くのが大好きです。
旅先などで急にノートを探すと、罫線の入っているモノしか買えないのですが、罫線はアイデアを考えるときに結構邪魔です。だから「お絵かき帳」や「計算用紙」みたいなものに絵を描くことが多いです。これはもう小学校に入る前からずっと続いている習慣です。
ふと、最近そのフェーズに入ったので、ひさしぶりに無印良品に行きました。
ちょっと見ない間に、無地のノートが沢山出ていて驚きました。
僕が子供の頃は、無地のノートを探すのはとても大変だったのです。
思わず沢山買ってしまったので、軽〜くレビューなんかを。
まず、文庫本ノート(147円)。
ポケットに入れて持ち歩けそうな感じが良いですね。
値段も手頃な割には製本がしっかりしているのでこのサイズの計算用紙にありがちな「一所懸命書いてたらパラパラになっちゃう」なんてことがなくて良い感じです。
でもいかんせん、文庫本の性質のせいか、真ん中あたりに書こうとするととてつもなく邪魔です。
平面的な制約ではなくて物理的な制約を受けます。
まあでも、インディ・ジョーンズのお父さんが書いていた聖杯ノートってこんな感じでしたよね。
そういうものへの憧れを思い起こさせるので思わず購入。
まあこの開いた感じがまさしく「文庫本」なんですけど、モノとして美しくても実用性を阻害するのはいただけません。
まあ安いし、あくまで非常用と考えるべきですね。
いわゆる無地のキャンパスノート。
開きやすいから書きやすいし、B5版が五冊セットで210円、A5版が5冊セットで189円とべらぼうに安い。こんなに安いならプロジェクトごとに別のノートにしてもいいくらい(だけど、そうすると、途中で使わなくなったノートが増えてしまって勿体ない)。
むかしこういうノートが欲しくて欲しくてたまらなかったけど、どこにも売ってなかったというのに、良い時代になったものです。
マインドマップブーム(僕自身はマインドマップはあまりすきじゃないけど)のお陰で無地ノートの需要が増したのでしょうか。
リング式ノート(ダブルリングノート A5ドット方眼 420円)。これは無地の奴(ダブルリングノート B5 168円)とドット方眼のやつの二種類ありました。これも両方購入。
ドット方眼は普通の方眼と同じ役目を持ちながら、ドットだから罫線が目立たなくて良い感じ。これもある種の発明と言えるかもしれません。
無地ノートが好きな人が考えた方眼っぽいなあ。
けど、やっぱりノートに邪魔な罫線があるのは気持ち悪いので、無地のダブルリング式ノートも購入。
リング式の長所はズバリ、破れること。
アイデアを書いて、ビリっと破いて相手に渡せる。
コレ、会議とかでけっこう便利です。
僕がいままでに作った製品の半分くらいは、ホワイトボードに書き殴ったり、無地のノートに書き殴ったりした僕の落書きを技術者やデザイナーに見せて、それを製品化したものです。
だから僕にとっては無地のノートは自分の思考をまとめる道具というだけではなく、コミュニケーションツールでもあるわけです。
そういう意味でリング式は偉大。破いて渡せるという点がとても偉大。
キャンパスノートと同様。リング式は完全に開いて書けるのでスペースを無駄なく使えます。
そして「なんだこれは!」と思って思わず買ってしまったのが次の商品
これは週刊誌4コマノート・ミニ(A5版 95円)。
まずこの発想に脱帽。
一体なにがどうして週刊誌の4コマを描く専用のノートを販売しようと思ったのか。
この商品を企画した人は大天才かあちら側にいる人かのどちらかだと思います。
で、僕はもうこれを凄い驚きと歓喜をもって受け入れたい。
なぜか?
罫線は邪魔だと言いましたが、例外もあるのです。
このくらいの大きい長方形が描いてあると、これは「画面」に見立てることが出来ます。
お絵かきブレストでもよく長方形を描いてから考え始めたりします。
このノートは最初からその長方形が沢山書き込まれているので、画面デザインのアイデアを練るときにはとてつもなく重宝しそうな予感がします。
こんなふうに縦にして使うと、Webやケータイの画面っぽいものの枠になりますし、横にして使うとFlashやゲーム機の画面のように使えます。
枠外に矢印を描けば、簡単なサイトフローを描くこともできそうです。
凄い発明だこれは!
ミニじゃないのを探したのですが、有楽町のMUJIでは見つかりませんでした。
大きい奴のも今度さがしてみます。
いやあ、しかし、本当にいろいろでているんですねえ。
こんな素敵なノートを持ち歩きつつ、アイデアをまとめつつ、いろいろ思索にふける、なんて想像するだけでちょっとワクワクしてきました。
そうそう。最後にこのノートを持ち歩くためのケース(バッグインバッグ 1785円)を買いました。
これが思いも掛けず、Macbook Airにピッタリの大きさ!まるであつらえたかのようです。
ちょうどMacbook Airのインナーケースを探していたところだったのでちょうど良かった。
これで無地ノートとノート型Macの両方がひとつのケースに収まります。まさに奇跡の邂逅。
来週はこのセットで颯爽とアイデアを練ったりしたいと思います。
雑誌とケータイに共通すること、しないこと
日本に雑誌は2000種類以上あるといわれ、その中でも週刊誌は30誌程度と言われます。
ケータイのコンテンツは実はネットのコンテンツよりもむしろ雑誌に似ているのです。
どこが似ているかというと・・・
というところです。
雑誌というのはターゲットメディアとも言われます。
ある特定のことに興味のある読者に向けて心を射るような特集を組み、連載を集め、紙面を構成していきます。
僕が書店で一番好きなのは雑誌コーナーで、雑誌コーナーに行くと実に様々な工夫や趣向をこらした雑誌が書棚を賑わしています。その様子は活気に満ちていて、とてもウキウキした気分になります。
ところが最近は年々雑誌の部数も落ちてきているようです。
その原因はやはりインターネットの台頭です。
速報性があり、ニッチマーケット向けでしかも無料。
Webサイトは瞬く間に雑誌業界を衰退産業にしてしまいました。
とはいえ雑誌社にも安易にWebへ移行できない事情があります。
単純にビジネスモデルです。
Web広告の場合、雑誌のように「見開きで200万円」みたいなお金の取り方はなかなかできません。
媒体の特性が違うので、どうしてもそうなります。
また、トラフィックを集めるのも一苦労です。
雑誌は流通に流せば書店には一度置いてもらえます。
置いてさえもらえれば、誰かの目に触れて売れる可能性も否定できません。
だから雑誌は号によって売り上げの変動が激しいのです。
雑誌の場合: 固定客 + ジャケ(表紙)買い客 の二重の集客が見込めます。
だから表紙にはさまざまなキーワードが踊り、写真にもひときわお金をかけるのです。
雑誌の表紙のキーワードって、とてもタグクラウドに似ています。
目的とするところは同じです。
みんなが興味を引くようなキーワードは大きく、そうでもなさそうなものは小さく表示されているのです。
ところがWebでは雑誌流通のような便利な仕組みはありません。
ユーザが検索行動を明確に起こすか、普段見ているサイトに広告料を払って誘導してこなければなりません。
さらに、広告料を払って誘導したとしても、Webサイトの収入源はやはり広告なのです。
広告料を払って広告料を得る、というのはいかにもマッチポンプです。
そして常に、広告料を払う相手というのは競合する可能性のあるところです。
だから、競合する媒体にはなかなか広告スペースを売ってくれません。
ということは、広告する場所を探すこと自体にも苦労するということです。
Webの場合、ほとんどの出版社は出遅れているので、気がつくと新興企業においしいところをとられていたりします。
広告だけに依存したビジネスモデルをあくまで適用するとすれば、こういう話もやむを得ないでしょう。
とはいえ雑誌社は生き残らなければなりません。
その点、ケータイサイトは有料コンテンツ配信が基本です。
ニュースなどの公共性の高い情報はともかく、取材機時やレビュー、コラムなど、作り込まれた記事は有料課金できる余地があります。
この辺りが既存のビジネスに似ています。月次で売り上げが立つところも一緒です。
しかし、違うところもあります。
ケータイサイトは、目に見えません。だから「陳列する」ということがまずない。
これはケータイサイトをプロデュースするうえで最も頭を悩ませるところです。
逆にいえばこの部分を突破できれば、他はデメリットをメリットに変えることもできます。
ケータイサイトを陳列することは不可能なので、アフィリエイトや広告に頼るしかありません。
紙媒体をもっている場合は自社媒体から極力誘導するのはもちろんですが、集客に最も効果的なのは、モバイル広告です。
だからどうしても既存のモバイル媒体に依頼して広告を掲載してもらうしかありません。
固定客しか相手にできない、というのはケータイサイトが持つ本質的な問題です。
月額課金制が全盛の時代では、ケータイサイトに加入するというのは、ある雑誌を定期購読するに等しいわけです。
しかしなぜ多くのサイトがこの方式を利用しているかと言うと、とにかく陳列されないからです。
陳列されないから、いくら面白い記事を作っても知ってもらうことができない。
立読みがある程度許容されているのも、それが結局は売り上げ向上につながる場合があるからです。
雑誌は特にそうだと思います。
「なんだか面白そうなことが書いてあるぞ、あとでじっくり読もう」
という気分になったときに、読者は雑誌をレジに持っていくのです。
逆に言うと、実は雑誌というのは「モバイル化」するためにコストを払うのだとも言えます。
図書館や書店やコンビニで立読みすれば、全部タダで読めなくもないのですが、落ち着かないし、自分の好きな場所で読みたい。家に保管しておいて時々読み返したい。そういうときにこそ雑誌を買うのです。
ケータイサイトの場合は、もともとモバイルですから、そもそもそういうコストというのがありません。
逆に即物的な興味を満たすために買うことになります。
しかし、ケータイサイトの場合、探す前にあきらめる、ということがあり得ます。
例えばクルマがとても好きな人が居たとして、あるとき
「あーヒマだなあ。クルマ欲しいし、中古車情報でも探すか」
というときにケータイのカーセンサーを探す人と、コンビニに行ってカーセンサーを買う人が居るということです。
でも、残念ながらケータイサイトはとても探しにくい。
たどり着く前にあきらめることも少なくありません。
コンビニに行ってたとえカーセンサーが置いてなかったとしても、Gooあたりを見つけて、「これでいいや」と思うこともあります。
普段コンビ二を歩いていて、何の興味もなくても、あるときふと中古車情報が欲しくなったときに「そういえばあそこに売っていたな」と思い出すのです。
こういう作用がケータイには残念ながらありません。
ひまつぶしにiメニューを上から順番に見る人が居たというのは過去の話です。
今はほとんど見られていません。
興味のあるサイトにはブックマークから一発で飛んでしまいます。
また、紙の雑誌でも既に赤字になっている媒体もいくつかあります。
それでも雑誌を出し続けるのは、単行本によって収益を得るためです。
ところがケータイサイトの場合、単行本という概念がない。
最近でこそケータイコミックや電子書籍が増えてきましたが、少し前までは絶望的なくらいそういうものがありませんでした。
ケータイサイトは同じ300円でも、3年間毎週更新されているサイトの300円と、先週始まったサイトの300円では、値打ちがぜんぜん違うのです。
過去の情報に全てアクセスできるようにしてしまうと、300円で無限に近い過去情報データベースにアクセスできるようになってしまいます。
これはもういっそバックナンバー掲載の有効期限をきってしまって、サイト内で電子書籍にまとめて発行、というスタイルが今後一般化するかもしれません。
どちらにせよ、たとえ「見れる」と行っても、三年前の情報にたどり着くインターフェースなど用意されていないサイトがほとんどです。「次へ」ボタンを100回押さないと見れないのであれば、もはやそれはバックナンバーとして意味を成していません。
このあたり、実にうまくやってのけているのがケータイコミックです。
僕はケータイコミックに月に何万円も使っています。ひとつひとつの話は30円で読めるのですが、ついつい続きが気になって読んでしまうのです。土日など、朝から晩まで読んでしまうこともあります。
単行本なら書店に行って在庫を調べたり、「今日は4巻までにしておくか」などとまとめ買いの算段をしなければなりませんが、ケータイコミックの場合、売り切れということはあり得ないので読みたいタイミングで読みたいだけ読むことが出来ます。しかもかさばらないし、本棚を占領しない。実に理想的な情報媒体だと言えます。
ケータイコミックの収益は、実はいまバカにできない規模になってきています。
印刷費や流通コストがかからないので、利益率がとても高いのです。しかもリスクも少ないので、多様性のある作品をたくさん販売することができます。
このままいくと遠からずケータイコミックがマンガ流通の主流になっていくのは間違いないでしょう。
同様のことが、電子書籍にも言えると思います。
ひょっとすると、このあたりに雑誌とケータイの融合というか、幸せな関係性というのが隠されているのかもしれません。
ケータイのコンテンツは実はネットのコンテンツよりもむしろ雑誌に似ているのです。
どこが似ているかというと・・・
- 定期的に刊行(更新)される
- 有料で頒布される
- 少数の固定客(ニッチマーケット)に向けて制作される
- ターゲットを絞り込んだ広告が掲載される
- 連載が続くことで単行本化(データベース化)される
というところです。
雑誌というのはターゲットメディアとも言われます。
ある特定のことに興味のある読者に向けて心を射るような特集を組み、連載を集め、紙面を構成していきます。
僕が書店で一番好きなのは雑誌コーナーで、雑誌コーナーに行くと実に様々な工夫や趣向をこらした雑誌が書棚を賑わしています。その様子は活気に満ちていて、とてもウキウキした気分になります。
ところが最近は年々雑誌の部数も落ちてきているようです。
その原因はやはりインターネットの台頭です。
速報性があり、ニッチマーケット向けでしかも無料。
Webサイトは瞬く間に雑誌業界を衰退産業にしてしまいました。
とはいえ雑誌社にも安易にWebへ移行できない事情があります。
単純にビジネスモデルです。
Web広告の場合、雑誌のように「見開きで200万円」みたいなお金の取り方はなかなかできません。
媒体の特性が違うので、どうしてもそうなります。
また、トラフィックを集めるのも一苦労です。
雑誌は流通に流せば書店には一度置いてもらえます。
置いてさえもらえれば、誰かの目に触れて売れる可能性も否定できません。
だから雑誌は号によって売り上げの変動が激しいのです。
雑誌の場合: 固定客 + ジャケ(表紙)買い客 の二重の集客が見込めます。
だから表紙にはさまざまなキーワードが踊り、写真にもひときわお金をかけるのです。
雑誌の表紙のキーワードって、とてもタグクラウドに似ています。
目的とするところは同じです。
みんなが興味を引くようなキーワードは大きく、そうでもなさそうなものは小さく表示されているのです。
ところがWebでは雑誌流通のような便利な仕組みはありません。
ユーザが検索行動を明確に起こすか、普段見ているサイトに広告料を払って誘導してこなければなりません。
さらに、広告料を払って誘導したとしても、Webサイトの収入源はやはり広告なのです。
広告料を払って広告料を得る、というのはいかにもマッチポンプです。
そして常に、広告料を払う相手というのは競合する可能性のあるところです。
だから、競合する媒体にはなかなか広告スペースを売ってくれません。
ということは、広告する場所を探すこと自体にも苦労するということです。
Webの場合、ほとんどの出版社は出遅れているので、気がつくと新興企業においしいところをとられていたりします。
広告だけに依存したビジネスモデルをあくまで適用するとすれば、こういう話もやむを得ないでしょう。
とはいえ雑誌社は生き残らなければなりません。
その点、ケータイサイトは有料コンテンツ配信が基本です。
ニュースなどの公共性の高い情報はともかく、取材機時やレビュー、コラムなど、作り込まれた記事は有料課金できる余地があります。
この辺りが既存のビジネスに似ています。月次で売り上げが立つところも一緒です。
しかし、違うところもあります。
- ケータイサイトは陳列されない
- 固定客しか相手にできない
- 広告収入が少ない
- バックナンバーは全て保存できるから単行本ビジネスにならない
- サイトの価値が時間経過とともに自動的に高まる
ケータイサイトは、目に見えません。だから「陳列する」ということがまずない。
これはケータイサイトをプロデュースするうえで最も頭を悩ませるところです。
逆にいえばこの部分を突破できれば、他はデメリットをメリットに変えることもできます。
ケータイサイトを陳列することは不可能なので、アフィリエイトや広告に頼るしかありません。
紙媒体をもっている場合は自社媒体から極力誘導するのはもちろんですが、集客に最も効果的なのは、モバイル広告です。
だからどうしても既存のモバイル媒体に依頼して広告を掲載してもらうしかありません。
固定客しか相手にできない、というのはケータイサイトが持つ本質的な問題です。
月額課金制が全盛の時代では、ケータイサイトに加入するというのは、ある雑誌を定期購読するに等しいわけです。
しかしなぜ多くのサイトがこの方式を利用しているかと言うと、とにかく陳列されないからです。
陳列されないから、いくら面白い記事を作っても知ってもらうことができない。
立読みがある程度許容されているのも、それが結局は売り上げ向上につながる場合があるからです。
雑誌は特にそうだと思います。
「なんだか面白そうなことが書いてあるぞ、あとでじっくり読もう」
という気分になったときに、読者は雑誌をレジに持っていくのです。
逆に言うと、実は雑誌というのは「モバイル化」するためにコストを払うのだとも言えます。
図書館や書店やコンビニで立読みすれば、全部タダで読めなくもないのですが、落ち着かないし、自分の好きな場所で読みたい。家に保管しておいて時々読み返したい。そういうときにこそ雑誌を買うのです。
ケータイサイトの場合は、もともとモバイルですから、そもそもそういうコストというのがありません。
逆に即物的な興味を満たすために買うことになります。
しかし、ケータイサイトの場合、探す前にあきらめる、ということがあり得ます。
例えばクルマがとても好きな人が居たとして、あるとき
「あーヒマだなあ。クルマ欲しいし、中古車情報でも探すか」
というときにケータイのカーセンサーを探す人と、コンビニに行ってカーセンサーを買う人が居るということです。
でも、残念ながらケータイサイトはとても探しにくい。
たどり着く前にあきらめることも少なくありません。
コンビニに行ってたとえカーセンサーが置いてなかったとしても、Gooあたりを見つけて、「これでいいや」と思うこともあります。
普段コンビ二を歩いていて、何の興味もなくても、あるときふと中古車情報が欲しくなったときに「そういえばあそこに売っていたな」と思い出すのです。
こういう作用がケータイには残念ながらありません。
ひまつぶしにiメニューを上から順番に見る人が居たというのは過去の話です。
今はほとんど見られていません。
興味のあるサイトにはブックマークから一発で飛んでしまいます。
また、紙の雑誌でも既に赤字になっている媒体もいくつかあります。
それでも雑誌を出し続けるのは、単行本によって収益を得るためです。
ところがケータイサイトの場合、単行本という概念がない。
最近でこそケータイコミックや電子書籍が増えてきましたが、少し前までは絶望的なくらいそういうものがありませんでした。
ケータイサイトは同じ300円でも、3年間毎週更新されているサイトの300円と、先週始まったサイトの300円では、値打ちがぜんぜん違うのです。
過去の情報に全てアクセスできるようにしてしまうと、300円で無限に近い過去情報データベースにアクセスできるようになってしまいます。
これはもういっそバックナンバー掲載の有効期限をきってしまって、サイト内で電子書籍にまとめて発行、というスタイルが今後一般化するかもしれません。
どちらにせよ、たとえ「見れる」と行っても、三年前の情報にたどり着くインターフェースなど用意されていないサイトがほとんどです。「次へ」ボタンを100回押さないと見れないのであれば、もはやそれはバックナンバーとして意味を成していません。
このあたり、実にうまくやってのけているのがケータイコミックです。
僕はケータイコミックに月に何万円も使っています。ひとつひとつの話は30円で読めるのですが、ついつい続きが気になって読んでしまうのです。土日など、朝から晩まで読んでしまうこともあります。
単行本なら書店に行って在庫を調べたり、「今日は4巻までにしておくか」などとまとめ買いの算段をしなければなりませんが、ケータイコミックの場合、売り切れということはあり得ないので読みたいタイミングで読みたいだけ読むことが出来ます。しかもかさばらないし、本棚を占領しない。実に理想的な情報媒体だと言えます。
ケータイコミックの収益は、実はいまバカにできない規模になってきています。
印刷費や流通コストがかからないので、利益率がとても高いのです。しかもリスクも少ないので、多様性のある作品をたくさん販売することができます。
このままいくと遠からずケータイコミックがマンガ流通の主流になっていくのは間違いないでしょう。
同様のことが、電子書籍にも言えると思います。
ひょっとすると、このあたりに雑誌とケータイの融合というか、幸せな関係性というのが隠されているのかもしれません。
次世代ケータイは人工知能が鍵になる
ソフトバンクから人型に変形する人工知能ケータイが出ると聞いて、ネタ商品にも関わらず、「ついに来たか」と思った訳ですよ。
次世代ケータイのキラー機能は人工知能。これは間違いないと思います。
とはいっても、人工知能なんて、PCでの利用ですらあまり実用化されていない技術ですから、今後のキーワードとなって、10年くらいは続く新しいトレンドになるという予想です。
うちの会社、UEIのVisionでも触れている通り、僕はエンドユーザコンピューティングの未来は、ユビキタス化によってもたらされるライフ(生活)ナビゲーションにあると思っています。
僕らがモバイル用CMSをしつこく開発しているのは、こういう時代になったとき、データソースをきちんとセマンティクごとに分けて保存し、いつでも取り出せるようにするためです。多くのPCサイトでは情報のマイクロフォーマット化による検索性の向上よりも、見栄えやコストを優先した制作現場になるため、どうしてもこれが難しいのです。
そのために作ったWebアプリケーションのための技術思想がZEKE(ジーク)であり、ZEKE CMS(モバイル用コンテンツ管理システム)やZEKE Lifelog Core(ミニブログエンジン)をはじめとするZEKE製品群で、弊社はセマンティック・ウェブのメリットをお客様に訴え、この製品群をいち早く事業化しました。
これにより、お客様は単にモバイルサイトのCMS化によってメリットを得るだけでなく、それぞれのサイトが連携し、ユーザーの嗜好や行動パターンを把握した人工知能によって新しいライフナビゲーションを実現するというコンセプトへとつながる橋渡しとなることを意図していました。
ケータイの画面はこれ以上広くなりません。
2001年頃にMCF(モバイルコンテンツフォーラム)のセミナーで講演した際、こんな質問が出たことを覚えています。
「ケータイの画面はもっと大きくなると思いますか?」
それに対して僕はこう答えました。
「ケータイのサイズはこれ以上大きくならないでしょうが、解像度はどんどんあがっていくと思います。おそらくVGAサイズくらいにはなるのではないでしょうか。ただし、あまり解像度をあげすぎてしまうと電力を浪費するので、解像度もあがりすぎることはないと思います。そうなったら次はアンチエイリアシングなど、描画技術の向上で解像度を補う方向になるはずです。PCの3D技術と同じです。遠からず、ケータイには3D処理専用チップが搭載されるでしょう。とはいえ面積は変わらないわけですから、ケータイとPCが全く同じように使われる時代は来ないでしょう」
その予想は2005年頃に現実のものとなります。
既に3Dはありましたが、VGAサイズの携帯が登場し、2007年には解像度は低いもののアンチエイリアシングを向上させてすばらしい描画性能がiPhoneによって実現されました。
iPhoneは当初、PCと同等のブラウザを搭載するため専用アプリの開発は不要と信じられていました。
しかし実際には、AppleはiPhone用SDKの配布を決定します。
次の潮流は、コンテンツレコメンデーションサービスです。
コンテンツ、という考え方が古いかもしれません。
情報のレコメンデーション、生活文脈のナビゲーション、つまり、ひとことでいえば、ライフナビゲーションということになります。
ケータイをパカッと開いたとき、自分の興味のある情報が最初からそこに表示されている。
ボタンをひとつ押すだけで、必要な情報が向こうからどんどんやってくる。
まさしく「空気を読むケータイ」というわけです。
このとき、人工知能というとなんだかまるで人間のような感情をもったものを想像されるでしょうが、そこまでたどり着くにはまだまだ時間がかかります。
そうではなくて、人間の思考を補佐するような、そっと人間の生活文脈に潤いを与えてくれるようなサービスです。
決してでしゃばらず、しかし頼りになる。
そういうものに、ケータイは進化していくのでしょう。
そういう意味で、ソフトバンクさんとしてはジョークなのでしょうが、初めて「人工知能」をコンセプトに据えたケータイが登場したことを、僕は歓迎したいと思います。
ケータイの人工知能化についてお悩みの方がいらしたら、ぜひ弊社までご相談を(笑)
次世代ケータイのキラー機能は人工知能。これは間違いないと思います。
とはいっても、人工知能なんて、PCでの利用ですらあまり実用化されていない技術ですから、今後のキーワードとなって、10年くらいは続く新しいトレンドになるという予想です。
うちの会社、UEIのVisionでも触れている通り、僕はエンドユーザコンピューティングの未来は、ユビキタス化によってもたらされるライフ(生活)ナビゲーションにあると思っています。
僕らがモバイル用CMSをしつこく開発しているのは、こういう時代になったとき、データソースをきちんとセマンティクごとに分けて保存し、いつでも取り出せるようにするためです。多くのPCサイトでは情報のマイクロフォーマット化による検索性の向上よりも、見栄えやコストを優先した制作現場になるため、どうしてもこれが難しいのです。
そのために作ったWebアプリケーションのための技術思想がZEKE(ジーク)であり、ZEKE CMS(モバイル用コンテンツ管理システム)やZEKE Lifelog Core(ミニブログエンジン)をはじめとするZEKE製品群で、弊社はセマンティック・ウェブのメリットをお客様に訴え、この製品群をいち早く事業化しました。
これにより、お客様は単にモバイルサイトのCMS化によってメリットを得るだけでなく、それぞれのサイトが連携し、ユーザーの嗜好や行動パターンを把握した人工知能によって新しいライフナビゲーションを実現するというコンセプトへとつながる橋渡しとなることを意図していました。
ケータイの画面はこれ以上広くなりません。
2001年頃にMCF(モバイルコンテンツフォーラム)のセミナーで講演した際、こんな質問が出たことを覚えています。
「ケータイの画面はもっと大きくなると思いますか?」
それに対して僕はこう答えました。
「ケータイのサイズはこれ以上大きくならないでしょうが、解像度はどんどんあがっていくと思います。おそらくVGAサイズくらいにはなるのではないでしょうか。ただし、あまり解像度をあげすぎてしまうと電力を浪費するので、解像度もあがりすぎることはないと思います。そうなったら次はアンチエイリアシングなど、描画技術の向上で解像度を補う方向になるはずです。PCの3D技術と同じです。遠からず、ケータイには3D処理専用チップが搭載されるでしょう。とはいえ面積は変わらないわけですから、ケータイとPCが全く同じように使われる時代は来ないでしょう」
その予想は2005年頃に現実のものとなります。
既に3Dはありましたが、VGAサイズの携帯が登場し、2007年には解像度は低いもののアンチエイリアシングを向上させてすばらしい描画性能がiPhoneによって実現されました。
iPhoneは当初、PCと同等のブラウザを搭載するため専用アプリの開発は不要と信じられていました。
しかし実際には、AppleはiPhone用SDKの配布を決定します。
次の潮流は、コンテンツレコメンデーションサービスです。
コンテンツ、という考え方が古いかもしれません。
情報のレコメンデーション、生活文脈のナビゲーション、つまり、ひとことでいえば、ライフナビゲーションということになります。
ケータイをパカッと開いたとき、自分の興味のある情報が最初からそこに表示されている。
ボタンをひとつ押すだけで、必要な情報が向こうからどんどんやってくる。
まさしく「空気を読むケータイ」というわけです。
このとき、人工知能というとなんだかまるで人間のような感情をもったものを想像されるでしょうが、そこまでたどり着くにはまだまだ時間がかかります。
そうではなくて、人間の思考を補佐するような、そっと人間の生活文脈に潤いを与えてくれるようなサービスです。
決してでしゃばらず、しかし頼りになる。
そういうものに、ケータイは進化していくのでしょう。
そういう意味で、ソフトバンクさんとしてはジョークなのでしょうが、初めて「人工知能」をコンセプトに据えたケータイが登場したことを、僕は歓迎したいと思います。
ケータイの人工知能化についてお悩みの方がいらしたら、ぜひ弊社までご相談を(笑)
ユーザーインターフェースを作るときに気をつけるべき5つのポイント
PCやケータイに限りませんが、アプリケーションの開発で、一番迷うのはユーザーインターフェースだったりします。
昨日、若いプログラマがこんなことを悩んでいました。
「この編集ボックスはAjaxで処理した方が良いのでしょうか」
「いや、そこは複数のユーザが同時にアクセスするかもしれないから、Ajaxだけで処理しようとするのは危険だと思うよ。泥くさいように見えても、一度サーバを経由した方が良いよ」
実際にAjaxが多様されているサイトを見渡してみても、それほど凝ったサイトはありません。
gmail、Yahoo、GoogleMapなどは全てAjaxをあくまで補助的に使っています。
やろうと思えば、Ajaxだけで普通のメールクライアントとそっくりな外観を持たせることも不可能ではありません。
しかし、そのやり方はWebブラウザに馴染まないのです。
Webブラウザというのは、全体として縦にスクロールするのが自然です。
通常のメーラーのような3ペイン方式にすると、どうしてもスクロールバーの中にスクロールバーが出てきて一見して複雑な印象を与えることになってしまいます。また、有効面積も狭くなってしまう。
実は、ゲームの開発などでも一番気を遣うのはユーザーインターフェースの部分です。
特に携帯電話などは、片手操作だけで遊べることを最大限重視します。最近の横画面ケータイが出てきてから様相は変わりつつありますが、基本は片手操作です。片手操作のゲームに慣れた状態で横画面のゲームを遊ぶと驚くほど違う体験になります。
なんでも5つのポイントにまとめるブログの法則に則り、ユーザーインターフェースを作る際に気をつけるべきポイントをまとめると
昨日、若いプログラマがこんなことを悩んでいました。
「この編集ボックスはAjaxで処理した方が良いのでしょうか」
「いや、そこは複数のユーザが同時にアクセスするかもしれないから、Ajaxだけで処理しようとするのは危険だと思うよ。泥くさいように見えても、一度サーバを経由した方が良いよ」
実際にAjaxが多様されているサイトを見渡してみても、それほど凝ったサイトはありません。
gmail、Yahoo、GoogleMapなどは全てAjaxをあくまで補助的に使っています。
やろうと思えば、Ajaxだけで普通のメールクライアントとそっくりな外観を持たせることも不可能ではありません。
しかし、そのやり方はWebブラウザに馴染まないのです。
Webブラウザというのは、全体として縦にスクロールするのが自然です。
通常のメーラーのような3ペイン方式にすると、どうしてもスクロールバーの中にスクロールバーが出てきて一見して複雑な印象を与えることになってしまいます。また、有効面積も狭くなってしまう。
実は、ゲームの開発などでも一番気を遣うのはユーザーインターフェースの部分です。
特に携帯電話などは、片手操作だけで遊べることを最大限重視します。最近の横画面ケータイが出てきてから様相は変わりつつありますが、基本は片手操作です。片手操作のゲームに慣れた状態で横画面のゲームを遊ぶと驚くほど違う体験になります。
なんでも5つのポイントにまとめるブログの法則に則り、ユーザーインターフェースを作る際に気をつけるべきポイントをまとめると
- 新鮮は良し、斬新は避ける
「斬新な」という言葉は良い意味のようですが、過ぎた斬新は悪です。
ゲームの画面が全て前衛芸術のようだったら、とても遊べたものではありません。
ラーメン屋に行ってスパゲティが出てきたら誰だって弱ります。
どんなUIも「新鮮だ」と思う程度に新しい要素を減らすべきです。
- 目の動きに沿って配置せよ
たいていの日本人や欧米人は左上から右下に向かって画面を見ます。
これは文章の流れがそのようになっているからです。
このアイムーブ(目の動き)をベースとして、必要な情報は左上から始まって右下で終わるように配置します。
たとえば入力ボックスの注意文などは入力ボックスの左上になければなりません。
入力完了のボタンは、入力ボックスより右か、下になければなりません。
そういうことです。
- 最も頻繁に使う操作を最短時間でできるように設計する
特にケータイコンテンツがそうですが、カーソルの移動量を最低限にするために、最も頻繁に使う機能から順に左上から埋めていきます。上でなにかして下でなにかして真ん中でなにかする、みたいな動きが頻繁に必要になると、そのサイトを使うのに疲れてしまいます。
- いつでも戻れるようにする
ケータイでもPCでも、ブラウザの戻るボタンでいつでも戻れるようになっています。
個人的にはこのボタンの存在が、Webというものを一般的なものにした強力な装置なのではないかと思います。
他のアプリケーションで明確に「戻る」ボタンを用意しているものは実はとても少ないのです。
たとえばExcelやWord。「戻る」ボタンはありません。かわりに「編集取り消し」ボタン(Ctrl-Z)があります。けれどもこれは隠れていて見えません。
紙と違ってコンピュータの良いところは、失敗してもすぐに前の状態に戻せるところです。
「戻る」ボタンが常時設置されていることが、ユーザの安心感に繋がります。
ただでさえ、ユーザにとって新しいソフトウェアというのは迷宮のようなものです。後戻りする方法がわからないのに迷宮の奥に進むのは蛮勇に過ぎるでしょう。
ゲームソフトの場合、強制スクロールのもの以外は必ず後戻りする方法がありますし、RPGなどでは「戻る」ボタンをBボタンなどと決めてあることが多いです。
- 最小限のボタンを用意する
ボタンがひとつ増えればユーザが1%減ると考えることが出来ます。
だから世界で最も多くの人が使って居るサービスはボタンがひとつしかありません。
そう。検索エンジンです。
Wordpressは怖いけど、mixiなら使える、という人はmixiのボタンの少なさを無意識に評価しています。
mixiでは、メニュー項目以外のボタンは殆どないからです。上級者向けのボタンを隠しておく、というのはよく使われる手法です。こういうときにこそJavascriptはさりげない威力を発揮します。
入社試験はなんのために実施するのか [キャリア]
先日、うちで3年弱バイトを続けている女の子が、新卒の面接に来ました。
彼女がバイトを始めた頃は、まだ赤坂の10坪くらいのオフィスで、会議室も隣の会社に借りているような時代。彼女は大学一年生で、熱意ある少女でした。
それから三年。
会社の規模は6倍になり、彼女もアルバイトとはいえ製品の重要な決定事項に関わるまでになりました。会社の中では片手に入るほどの古株です。
長年アルバイトを続けてきてくれた子が、迷わずうちを就職先に選んでくれる。
そういうことが本当に嬉しくて、すぐに内定を出してあげようかと思ったけれども、そこは僕なりに踏みとどまって、きちんとした手順で履歴書を受け付け、面接をし、入社試験をしました。
その日はとても奇妙でした。
彼女はいつも僕の右前の席に座っているのですが、定例会議が終わって、「時間です」と言われて面接に赴きました。
お互い、どこか緊張しつつ、どこかこのおかしな状況を楽しみつつ、通り一遍のやりとりをしました。
彼女は、僕のブログを読んでいましたから、僕が面接で何を聞くか、何を答えればいいのか、自分でも把握した上で慎重に言葉を選んでいました。
良くできた部下というのは良くできた教え子のようなものです。
僕がそう感じるとき、きっと部下のほうが上司の自分よりもずっと優秀なのです。
志望理由、展望など、聞くべきことを聞いてから、さて、と思いました。
このまま面接を終えて良いものか。
彼女にとっては、一生に一度しかない新卒の就職活動です。
それがこんなあっさりと面接だけで終わって良いのでしょうか。
一次面接、二次面接、最終面接と進んでいくのが通常の新卒のステップです。
いきなり社長面接から始まって、それで評価が決まってしまって良いのか。
そこで、筆記試験をすることにしました。
といっても、実はうちの会社は技術系のスタッフは全て筆記試験が義務づけられているのです。
技術系でないスタッフであっても、デザイナーなどは必ず作品提出が義務づけられます。
ではなぜ、入社試験をするのでしょうか。
入社試験には、いろいろな意味があります。
まず入社試験というのは、入学試験とまるで逆のことを目的としています。
入学試験の目的は、定員までに絞り込むこと。
つまり、「落とすための試験」です。
入社試験の目的は、一定の水準を満たしているかどうか確認すること。つまり「入れるための試験」です。
学校と異なり、会社の場合は、優秀な新人であれば、たとえ定員を超えてしまったとしても欲しいのです。
小さい会社は特にそうです。それはいつでも、どんなときでも変わりません。
優秀な新人とはなにか?
極めて端的に言えば、若くて、賢くて、熱意のある人です。
どれひとつ欠けても「優秀な新人」とは成りません。
その3つの条件を満たす人は、就職先がみつからなくて困ることはまずないでしょう。
逆に、その条件を満たさなければ、将来にわたってお互いにとって不幸な結果を招くことでしょう。
だから入社前に必ずその確認をするのです。これはアルバイトでも特殊な例外を除けばあてはまります。
どんなに面接が上手くても、筆記試験をすれば相手の適性や知性の方向性は解ります。
とはいえ、そんなに時間がないのでうちの会社の入社試験はたった90分で三科目をやります。
論理演算、英語、小論文です。
弊社の試験のポイントは、「知識がなくても、熱意があって十分賢ければ、必ず全問正答できる」ということです。
つまり試験勉強そのものが無意味ということです。
例えば「英語」
英語を理解するのに、英語の全ての知識を覚えてきたり、辞書を丸暗記しても全く無意味です。
実際、面白いことに、先日英語の翻訳のアルバイトの採用試験をした際、辞書持ち込み可という条件だったにもかかわらず、半分の人が誤った解答を書いていました。試験問題はとても簡単で、海外のニュースサイトにある英文を読んで、それを要約するだけ。
そんな簡単なことですら、きちんと解ける人は少ないのです。
次に、論理演算。
論理演算は、答えを導くのに必要な知識やヒントは全て問題に書かれています。
十分な時間があれば、確実に正答を見つけることが出来るはずです。
それだけではあまりに簡単なので、時間制限を設けています。
さて、上記二つは、真面目に学校の教育を受けていたり、英語のリテラシーがあったりすれば、全く間違わずに答えることも可能です。人によってはあまりに簡単で拍子抜けしてしまいます。
そういう人の真の発想力や思考力を見極めたり、逆にどうしても短時間のうちに論理演算の答えを見つけたり、慣れない英文を読んで苦労したりした人の救済措置として、小論文があります。
小論文は二問あり、いくつかのテーマの中から選んで論文を書きます。
人によっては論理演算はあまりにも難しいと感じるらしく、まるで白紙の場合もありますが、そのぶん小論文で熱心さが伝われば、その部分を評価することがあります。
ただし、小論文というのは、非常に難しく、熱心であるように見えるだけでもいけませんし、頭が良さそうに見えるだけでもいけません。
「実際に頭が良い」必要があります。
ただ、人によっては文章を書く能力をあまり磨いておらず、頭は良いんだけど、文章にして表現できないということがあります。それで論理演算と英語の問題があるのです。全部だめなら、残念ながらこの評価基準では救いようがないということになってしまいます。
頭が悪い人はどんなに頑張っても小論文を書いて「頭が良い」と思わせることはできません。
小論文を読み慣れている人が読むと、書いた人の普段の性格や将来性までもが見抜かれてしまいます。
ここにもへんなテクニックや小細工は通用しません。
たとえば、どこかで見たような話を繰り返していたら、ダメです。
だから事前に「Web進化論」を読んでおこうとか、このブログを読んでおこうとか、思っても何の役にも立ちません。
とはいえ、全く無意味な、現実を無視し過ぎた話も、ダメです。この場合、単に思いこみが激しく、非現実的なことばかり考える傾向があると判定されてしまいます。
ではどうするのがいいのか。
簡単です。きっと、あらゆる小論文に通じることだと思います。
「常識的で、独創的で、発展的な文章を書くこと」です。
実際のところ、それが本当に独創的である必要はありません。自分で考えた結果が、実は以前にどこか別のところで誰かが言っていたことと被る可能性も有り得なくはありません。
とはいえ、有名な本に書いてあることをそのまんま書いた場合、この業界に対してあまりに勉強不足という評価を貰ってしまうのは否めないでしょうし、かといって有名な本について書いてあることすら把握していなかった場合、やぱり不勉強であると思われてしまいます。
うちの場合、この小論文を最も重視します。
大企業になると小論文を読む前にいろいろな条件で落とさないととても全部読み切れないので落とす場合もあると思いますが、うちは会社が小さいので必ず社長が小論文に全て目を通します。
そして、UEIで働くに相応しい資質を持っていることが確認できて、初めて採用通知を出すのです。
うちのような規模だと、入社試験をきちんと実施していない会社も多いと聞きます。
けれども、僕はサラリーマンの時代から一貫して入社試験には拘ってきました。
なぜなら、会社が発展し続けることを前提に置けば、まだ小さいうちに入ってくる社員というのは全員が将来の幹部候補です。だから面接でも必ず「将来どうなりたいか」「将来、この会社をどうしていきたいか」ということを聞くようにしています。
彼らはひとたび社員になれば、一人一人が会社の顔になるのです。だから人を雇うのは慎重に慎重を重ねるのです。
そして厳しい入試試験をすればするほど、それに合格した社員は厳しい自覚を持って業務にあたってくれます。
あるとき、あまりに面接の間口を広げすぎてしまったことがあって、あらゆる人を面接することになってしまい、僕がとても苦労したという話を社員にしたら、彼はこう言いました。
「"あの"入社試験はちゃんとやったのですか?あれを先にやればかなりの人は絞れると思います」
僕が思っている以上に、社員にとって入社試験の記憶は強烈に残っていて、「あんな難しい試験をくぐり抜けるのだったら、その相手は認めても良い」と思わせるだけの存在になっていたのです。
そういう細かいこと、ひとつひとつが、もしかすると社員の誇りを醸成し、品質意識や技術意識を高めることに一役買っているのかも知れません。
また、筆記試験をすることで、仮に不合格になってしまった場合でも、お互いに納得できるという点も見逃せません。
面接だけで落ちてしまうと、一体何が悪かったのか解らず、腹が立ってきます。
筆記試験をやってから落ちると、「しょうがなかったか」という気分になります。
面接だけで落とされた人は、きっとそれがどんな理由であれ、我々に対していい気分を抱かないでしょう。
女の子に振られるよりも会社に振られるのは辛いことです。
しかし筆記試験の結果落ちたとあれば、なんとなく納得できます。
筆記試験というのは、「会社はこういう尺度で貴方という人間を評価しますよ」という、いわばマニフェストなのです。
その評価尺度が、自分にとってあわないものであれば、落ちてもやむなし、と思うのではないでしょうか。
就活ではないですが、僕が以前、東大大学院の情報学監ムニャムニャ産学連携プログラムというのを受験したときに小論文と英語の試験しか出なかったのですが、その小論文の問いが
「次世代ゲーム機のスペックを予想し、そのゲーム機で実現可能になるゲームを企画しろ」
というもので、極めてズッコケた記憶があります。
なぜなら僕は当の発売前の次世代ゲーム機の開発にどっぷりハマッていて、そのスペックというのはたとえ知っていても・・・というか、知っているからこそ、守秘義務で書くことが出来ないからです。
考えあぐねた僕は、その設問の目的が本当の次世代ゲーム機のスペックを推定させることではなくて、ゲーム機というものに対する理解力を量りたいのだろうと決めつけ、「分散型コンピュータを利用した世界初の分散型ゲーム」という、完全なる妄想ゲームマシンをでっちあげ、その上で実現する「分散型仮想世界シミュレーション」なる陳腐なゲームと、その駆動原理を全て妄想だけで描ききりました。でも、実現したら面白いのではないか、と思うレベルで。
これを書いたあとで僕は、「これで落ちるんなら、東大にはゲームや技術を理解している先生はひとりも居ないのだろうな」と却って諦めが付きました。そもそも、ゲーム機のスペック予想なんて中学生みたいな問題を出すのはいかがなものか、と思ったりして。
とまあ、合否はともかく、こんなふうに気持ちよく諦めがつくものなのです。
気持ちよく諦めた場合、誰かにその会社のことを聞かれたら、「あそこの試験は受けたけど、僕には向いてなかったよ。英語が必修なんだもん」とポジティブに語ることが出来ます。面接だけだと、「あの面接官でなければ・・・」など、絶対に運不運がでて、「語りたくない」ということになってしまいます。
入社試験の問題というのは、会社から入社希望者に対して会社の持つ価値観を伝える最も重要なメディアなのです。
人間の感情や決めつけになってしまうとなにかと不都合なとき、代替物となって真の意図を伝える役割を果たす者を心理学では「ミーディアム」と呼ぶそうです。中間物、ということですね。
タロット占いにおけるタロットカード、手相占いにおける手相など、占いはミーディアムをうまく活用するものが殆どです。占い以外でも、プレゼンテーションにおけるグラフや、引用文はミーディアムと言えます。言いにくいことを他の中間物を挟むことによってうまく伝えるのです。
というわけで、まとめると、入社試験をする理由は
ということですね
彼女がバイトを始めた頃は、まだ赤坂の10坪くらいのオフィスで、会議室も隣の会社に借りているような時代。彼女は大学一年生で、熱意ある少女でした。
それから三年。
会社の規模は6倍になり、彼女もアルバイトとはいえ製品の重要な決定事項に関わるまでになりました。会社の中では片手に入るほどの古株です。
長年アルバイトを続けてきてくれた子が、迷わずうちを就職先に選んでくれる。
そういうことが本当に嬉しくて、すぐに内定を出してあげようかと思ったけれども、そこは僕なりに踏みとどまって、きちんとした手順で履歴書を受け付け、面接をし、入社試験をしました。
その日はとても奇妙でした。
彼女はいつも僕の右前の席に座っているのですが、定例会議が終わって、「時間です」と言われて面接に赴きました。
お互い、どこか緊張しつつ、どこかこのおかしな状況を楽しみつつ、通り一遍のやりとりをしました。
彼女は、僕のブログを読んでいましたから、僕が面接で何を聞くか、何を答えればいいのか、自分でも把握した上で慎重に言葉を選んでいました。
良くできた部下というのは良くできた教え子のようなものです。
僕がそう感じるとき、きっと部下のほうが上司の自分よりもずっと優秀なのです。
志望理由、展望など、聞くべきことを聞いてから、さて、と思いました。
このまま面接を終えて良いものか。
彼女にとっては、一生に一度しかない新卒の就職活動です。
それがこんなあっさりと面接だけで終わって良いのでしょうか。
一次面接、二次面接、最終面接と進んでいくのが通常の新卒のステップです。
いきなり社長面接から始まって、それで評価が決まってしまって良いのか。
そこで、筆記試験をすることにしました。
といっても、実はうちの会社は技術系のスタッフは全て筆記試験が義務づけられているのです。
技術系でないスタッフであっても、デザイナーなどは必ず作品提出が義務づけられます。
ではなぜ、入社試験をするのでしょうか。
入社試験には、いろいろな意味があります。
まず入社試験というのは、入学試験とまるで逆のことを目的としています。
入学試験の目的は、定員までに絞り込むこと。
つまり、「落とすための試験」です。
入社試験の目的は、一定の水準を満たしているかどうか確認すること。つまり「入れるための試験」です。
学校と異なり、会社の場合は、優秀な新人であれば、たとえ定員を超えてしまったとしても欲しいのです。
小さい会社は特にそうです。それはいつでも、どんなときでも変わりません。
優秀な新人とはなにか?
極めて端的に言えば、若くて、賢くて、熱意のある人です。
どれひとつ欠けても「優秀な新人」とは成りません。
その3つの条件を満たす人は、就職先がみつからなくて困ることはまずないでしょう。
逆に、その条件を満たさなければ、将来にわたってお互いにとって不幸な結果を招くことでしょう。
だから入社前に必ずその確認をするのです。これはアルバイトでも特殊な例外を除けばあてはまります。
どんなに面接が上手くても、筆記試験をすれば相手の適性や知性の方向性は解ります。
とはいえ、そんなに時間がないのでうちの会社の入社試験はたった90分で三科目をやります。
論理演算、英語、小論文です。
弊社の試験のポイントは、「知識がなくても、熱意があって十分賢ければ、必ず全問正答できる」ということです。
つまり試験勉強そのものが無意味ということです。
例えば「英語」
英語を理解するのに、英語の全ての知識を覚えてきたり、辞書を丸暗記しても全く無意味です。
実際、面白いことに、先日英語の翻訳のアルバイトの採用試験をした際、辞書持ち込み可という条件だったにもかかわらず、半分の人が誤った解答を書いていました。試験問題はとても簡単で、海外のニュースサイトにある英文を読んで、それを要約するだけ。
そんな簡単なことですら、きちんと解ける人は少ないのです。
次に、論理演算。
論理演算は、答えを導くのに必要な知識やヒントは全て問題に書かれています。
十分な時間があれば、確実に正答を見つけることが出来るはずです。
それだけではあまりに簡単なので、時間制限を設けています。
さて、上記二つは、真面目に学校の教育を受けていたり、英語のリテラシーがあったりすれば、全く間違わずに答えることも可能です。人によってはあまりに簡単で拍子抜けしてしまいます。
そういう人の真の発想力や思考力を見極めたり、逆にどうしても短時間のうちに論理演算の答えを見つけたり、慣れない英文を読んで苦労したりした人の救済措置として、小論文があります。
小論文は二問あり、いくつかのテーマの中から選んで論文を書きます。
人によっては論理演算はあまりにも難しいと感じるらしく、まるで白紙の場合もありますが、そのぶん小論文で熱心さが伝われば、その部分を評価することがあります。
ただし、小論文というのは、非常に難しく、熱心であるように見えるだけでもいけませんし、頭が良さそうに見えるだけでもいけません。
「実際に頭が良い」必要があります。
ただ、人によっては文章を書く能力をあまり磨いておらず、頭は良いんだけど、文章にして表現できないということがあります。それで論理演算と英語の問題があるのです。全部だめなら、残念ながらこの評価基準では救いようがないということになってしまいます。
頭が悪い人はどんなに頑張っても小論文を書いて「頭が良い」と思わせることはできません。
小論文を読み慣れている人が読むと、書いた人の普段の性格や将来性までもが見抜かれてしまいます。
ここにもへんなテクニックや小細工は通用しません。
たとえば、どこかで見たような話を繰り返していたら、ダメです。
だから事前に「Web進化論」を読んでおこうとか、このブログを読んでおこうとか、思っても何の役にも立ちません。
とはいえ、全く無意味な、現実を無視し過ぎた話も、ダメです。この場合、単に思いこみが激しく、非現実的なことばかり考える傾向があると判定されてしまいます。
ではどうするのがいいのか。
簡単です。きっと、あらゆる小論文に通じることだと思います。
「常識的で、独創的で、発展的な文章を書くこと」です。
実際のところ、それが本当に独創的である必要はありません。自分で考えた結果が、実は以前にどこか別のところで誰かが言っていたことと被る可能性も有り得なくはありません。
とはいえ、有名な本に書いてあることをそのまんま書いた場合、この業界に対してあまりに勉強不足という評価を貰ってしまうのは否めないでしょうし、かといって有名な本について書いてあることすら把握していなかった場合、やぱり不勉強であると思われてしまいます。
うちの場合、この小論文を最も重視します。
大企業になると小論文を読む前にいろいろな条件で落とさないととても全部読み切れないので落とす場合もあると思いますが、うちは会社が小さいので必ず社長が小論文に全て目を通します。
そして、UEIで働くに相応しい資質を持っていることが確認できて、初めて採用通知を出すのです。
うちのような規模だと、入社試験をきちんと実施していない会社も多いと聞きます。
けれども、僕はサラリーマンの時代から一貫して入社試験には拘ってきました。
なぜなら、会社が発展し続けることを前提に置けば、まだ小さいうちに入ってくる社員というのは全員が将来の幹部候補です。だから面接でも必ず「将来どうなりたいか」「将来、この会社をどうしていきたいか」ということを聞くようにしています。
彼らはひとたび社員になれば、一人一人が会社の顔になるのです。だから人を雇うのは慎重に慎重を重ねるのです。
そして厳しい入試試験をすればするほど、それに合格した社員は厳しい自覚を持って業務にあたってくれます。
あるとき、あまりに面接の間口を広げすぎてしまったことがあって、あらゆる人を面接することになってしまい、僕がとても苦労したという話を社員にしたら、彼はこう言いました。
「"あの"入社試験はちゃんとやったのですか?あれを先にやればかなりの人は絞れると思います」
僕が思っている以上に、社員にとって入社試験の記憶は強烈に残っていて、「あんな難しい試験をくぐり抜けるのだったら、その相手は認めても良い」と思わせるだけの存在になっていたのです。
そういう細かいこと、ひとつひとつが、もしかすると社員の誇りを醸成し、品質意識や技術意識を高めることに一役買っているのかも知れません。
また、筆記試験をすることで、仮に不合格になってしまった場合でも、お互いに納得できるという点も見逃せません。
面接だけで落ちてしまうと、一体何が悪かったのか解らず、腹が立ってきます。
筆記試験をやってから落ちると、「しょうがなかったか」という気分になります。
面接だけで落とされた人は、きっとそれがどんな理由であれ、我々に対していい気分を抱かないでしょう。
女の子に振られるよりも会社に振られるのは辛いことです。
しかし筆記試験の結果落ちたとあれば、なんとなく納得できます。
筆記試験というのは、「会社はこういう尺度で貴方という人間を評価しますよ」という、いわばマニフェストなのです。
その評価尺度が、自分にとってあわないものであれば、落ちてもやむなし、と思うのではないでしょうか。
就活ではないですが、僕が以前、東大大学院の情報学監ムニャムニャ産学連携プログラムというのを受験したときに小論文と英語の試験しか出なかったのですが、その小論文の問いが
「次世代ゲーム機のスペックを予想し、そのゲーム機で実現可能になるゲームを企画しろ」
というもので、極めてズッコケた記憶があります。
なぜなら僕は当の発売前の次世代ゲーム機の開発にどっぷりハマッていて、そのスペックというのはたとえ知っていても・・・というか、知っているからこそ、守秘義務で書くことが出来ないからです。
考えあぐねた僕は、その設問の目的が本当の次世代ゲーム機のスペックを推定させることではなくて、ゲーム機というものに対する理解力を量りたいのだろうと決めつけ、「分散型コンピュータを利用した世界初の分散型ゲーム」という、完全なる妄想ゲームマシンをでっちあげ、その上で実現する「分散型仮想世界シミュレーション」なる陳腐なゲームと、その駆動原理を全て妄想だけで描ききりました。でも、実現したら面白いのではないか、と思うレベルで。
これを書いたあとで僕は、「これで落ちるんなら、東大にはゲームや技術を理解している先生はひとりも居ないのだろうな」と却って諦めが付きました。そもそも、ゲーム機のスペック予想なんて中学生みたいな問題を出すのはいかがなものか、と思ったりして。
とまあ、合否はともかく、こんなふうに気持ちよく諦めがつくものなのです。
気持ちよく諦めた場合、誰かにその会社のことを聞かれたら、「あそこの試験は受けたけど、僕には向いてなかったよ。英語が必修なんだもん」とポジティブに語ることが出来ます。面接だけだと、「あの面接官でなければ・・・」など、絶対に運不運がでて、「語りたくない」ということになってしまいます。
入社試験の問題というのは、会社から入社希望者に対して会社の持つ価値観を伝える最も重要なメディアなのです。
人間の感情や決めつけになってしまうとなにかと不都合なとき、代替物となって真の意図を伝える役割を果たす者を心理学では「ミーディアム」と呼ぶそうです。中間物、ということですね。
タロット占いにおけるタロットカード、手相占いにおける手相など、占いはミーディアムをうまく活用するものが殆どです。占い以外でも、プレゼンテーションにおけるグラフや、引用文はミーディアムと言えます。言いにくいことを他の中間物を挟むことによってうまく伝えるのです。
というわけで、まとめると、入社試験をする理由は
- その会社に相応しい知性と熱意があるか調べる
- 入社後に社員のプライドや価値観の方向性を決定づける
- 入社前の社員に会社の持つ価値観を伝えるメディア
- 落ちてもポジティブに諦めることができるためのミーディアム
ということですね
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