No Imagination No Future:想像なくして未来なし
僕の仕事の半分は未来を予想することです。
残りの半分は未来を実装することです。
予想があって、実装がある。このサイクルは両方ないとうまくいきません。
実装するから予想できて、予想するから廃れない技術を実装できるのです。
ところが昔にくらべると「未来はこうなる」式の話をあまり見かけない気がしています。
これは僕が年を取ったこととも関係しているのだと思いますが、例えば僕が中学生くらいの頃は少なくとも
・無線通信
・超伝導
・核融合
・風力発電
・ニューラルネット
・人工知能
・人型ロボット
・リニアモーターカー
・マイクロマシン
・火星探査
・ボイジャー二号
・宇宙旅行
あたりは毎月の雑誌に載るくらいにはホットな話題だったように思います。
それはたぶん、僕が読んでいる雑誌が、「子供の科学」から「日経サイエンス」へ、そして現在はCNet Japanへと変化してしまったことと無関係ではないでしょう。
いつのまにか最先端の技術については疎くなっているような気がするのです。
子供の頃に「未来はこうなる」式に語られたビジョンは、ユートピア的なもの(未来の家は電子化されていて帰る時間になると自動的に風呂が沸いてるとか)からディストピア的なもの(未来の地球は環境破壊が進んで宇宙服を着て歩かないと肌が焼けて死ぬとか)までいろいろありました。
最近、全くそういう話を聞かなくなったのは、僕が夢のない大人になってしまったせいでしょうか。
ここ数年、耳にした新技術・新素材は、恥ずかしながら以下のようなものしかありません。
・有機EL
・カーボンナノチューブ
・燃料電池
・ナノマシン
・UWB
・WiMAX
・Flash Player 10(!?)
・次世代携帯電話
・量子ワープ
・セマンティックウェブ(最新?)
・Web2.0
・着用型ロボット
・家庭用ロボット
・ハイブリッドエンジン
・宇宙旅行
・ヘテロジニアスマルチコア
・メニーコア
なんか昔にくらべると異様に現実的なものしか見てないことに我ながら愕然とします。
要するに自分の視野が狭くなっているのです。
Web2.0が最新技術かというと、既存の技術の再定義なのでどちらかというと技術用語というより文化用語のような気がしてかなり疑問ですし、UWBもWiMAXも既に存在しているものなので、いまさらなにをという気もするのですが、本当に新しい話を聞かない。さらにインテルがマルチコア化に行ったり、nVidiaがCUDAで128コアのGPUをハイパフォーマンスコンピューティングに利用したりという話はあるものの、実際にそれが未来でどうなるのか、という具体像についてはあまり描けていないのが実情ではないでしょうか。
20年前に夢物語だったことはどんどん現実化し、確かに進化している部分は沢山あるのですが、反対に忘れられつつあることも沢山あって、たとえば常温核融合とか、超伝導とか、最近あまり話題に登らないのは、ダメだったという結論になってしまったか、知らないうちに実現していたか既に諦めたかのどちらかなのかもしれません。
とにかく、昔にくらべると圧倒的に夢がない。世間というより僕が。
3年先くらいのことは想像できますが、5年先となるとぼやけてしまう。
もっと言えば、10年後なんて想像もつかない。
なぜかというと、未来の共通認識がないからです。
例えば僕より20歳くらい上の世代になると、「2001年宇宙の旅」を見て理系に進んだ人というのが沢山います。
「2001年宇宙の旅」は、映画としてはとっても眠くなる映画だし、テーマも重すぎてわけがわからない。けれども絶大な支持を集めた映画なんです。
これは、IBMを初めとする当時の世界を代表する企業の科学者達が、「2001年の宇宙の旅」というものをできるだけ性格に予想し、「未来はこうなる」という強烈な図式を示したことが、不思議なリアリティに繋がり、とても説得力を持って観客に訴えかけたのだと思います。
それで、SFというのは、現実を追い越してしまった。
2001年宇宙の旅で描かれるような有人木星探査はいまのところ夢のまた夢です。
HAL-9000のような高度な人工知能はやっぱり夢のまた夢です。HAL-9000は設定によると1992年に生まれることになっています。
映画「2001年」は、あくまでも60年代の未来観であったのです。
1968年に映画が公開された頃は、30年後には当たり前のように宇宙を旅しているだろう、という予想のもとでこの映画が作られたわけですが、現実にはもっと退屈な30年間でした。
1968年といえば、日本ではテレビの全国のカラー放送化がちょうど終わった年で、それから40年近い月日が流れているにもかかわらず、科学的に派手な進歩は少なく、町並みは大きく様変わりしましたが、とはいえクルマが空を飛ぶほどには変わっていないわけです。
これは、攻殻機動隊の描く未来の2030年の世界で空飛ぶクルマはなくなってしまった話と微妙にシンクロするかもしれませんが、とにかく「世の中はもっと静かにゆっくりと変化していく」という感覚が生まれていったことは非常に面白いことです。
それと、特に日本がそうですが、圧倒的にSFの新作が少なくなっているような気がします。
Wikipediaの説明を見ると、SFは1980年代のポストサイバーパンクでとぎれています。
セカンドライフの元ネタとして知られ、かなり新鮮に映るニール・スティーヴンスンの「スノウ・クラッシュ」ですら、1992年の作品ですから、実に16年前です。
既に80年代には「あと20年しかないし、どうやらクルマは空を飛んでくれないらしい」というある意味で悲観的な世界観の変化があって、宇宙からネットワークへとその舞台を移した。ところがそのネットワークへと舞台を移すと、とたんに作品の数が減るのです。
「宇宙もの」というSFのジャンルで探すと、「スターウルフ」「宇宙のスカイラーク」「レンズマン」「宇宙英雄ペリー・ローダン」などなど、沢山の名シリーズが出てきます。
しかし、サイバーパンクもので有名なシリーズといえば、わずかに「ニューロマンサー」「クローム襲撃」「モナリザ・オーヴァドライブ」の「スプロール三部作」があるのみ。
いや、他にもあるのかもしれないし、僕も別にSFマガジンを毎月読むほどの熱心なSF者ではないから、隠れた名シリーズがあるのかもしれない(ああ、たとえばミルキーピア物語とか)けど、それでも昔にくらべて圧倒的に減ってしまったな、と。
「敵は海賊」シリーズは微妙にサイバーパンクっぽい要素は入っていたし、「戦闘要請雪風」はサイバーパンクではないけれども、コンピュータ間の通信の描写が実に細かかった。
2003年発表の「マルドゥック・スクランブル」も面白いけど、もうSFというより魔法モノみたいになってるし(事実、進歩した科学は魔法と区別が付かないわけだ)、これが未来だとはあまり思えない。
ではどうしてこうなっているのか。
ひとつには、昔と違って、科学者が小説を書いていないのではないか、または科学者がそもそもSFと呼ばれる作品の中でどんどん出てこなくなっているのではないか、という気がするわけです。
特にアシモフはコロンビア大学の博士号を持っているし、そうした知見の鋭さなどが明らかに作品性に反映されていた一方で、「アシモフの科学エッセイ」と称した科学紹介もしていますし、ルーディ・ラッカーも数学者で人工知能の研究者です。
SFであるからには、科学的根拠(らしきもの)に根ざした未来予想というのもひとつの作品性だと思うのですが、これを達成するには要するに本当に科学者でなければいけないわけです。
少なくとも科学技術をある程度知っていて、その発展の可能性をさらに見極めないといけない。
良くも悪くも今は人類の進歩の踊り場に来てるような肌感覚があります。
科学技術の進歩の踊り場であっても、代わりに文化や経済が発達しますから、それはそれで大いにやっていただきたいわけですが、科学技術に関わる者として、この状況はいかんともしがたく、実にもどかしいわけです。
攻殻機動隊によって描かれる未来は、ディストピアのようなユートピアで、マトリックスで描かれるのは一見ユートピアに見えるにディストピア。
昔からSFも、ホラーSFと明るいSFの二種類が交互に流行したので、そろそろ明るいSFが読みたい。
でもいつまでたってもそれが出てこないので、自分で未来のネタを探しに行こうと思います。
このブログの読者の方のなかで、「これは未来だ」「未来はこうなる!」「こうなって欲しい」と思っていらっしゃる方、お気軽にトラバかメール下さい。info @ uei.co.jpまで。
残りの半分は未来を実装することです。
予想があって、実装がある。このサイクルは両方ないとうまくいきません。
実装するから予想できて、予想するから廃れない技術を実装できるのです。
ところが昔にくらべると「未来はこうなる」式の話をあまり見かけない気がしています。
これは僕が年を取ったこととも関係しているのだと思いますが、例えば僕が中学生くらいの頃は少なくとも
・無線通信
・超伝導
・核融合
・風力発電
・ニューラルネット
・人工知能
・人型ロボット
・リニアモーターカー
・マイクロマシン
・火星探査
・ボイジャー二号
・宇宙旅行
あたりは毎月の雑誌に載るくらいにはホットな話題だったように思います。
それはたぶん、僕が読んでいる雑誌が、「子供の科学」から「日経サイエンス」へ、そして現在はCNet Japanへと変化してしまったことと無関係ではないでしょう。
いつのまにか最先端の技術については疎くなっているような気がするのです。
子供の頃に「未来はこうなる」式に語られたビジョンは、ユートピア的なもの(未来の家は電子化されていて帰る時間になると自動的に風呂が沸いてるとか)からディストピア的なもの(未来の地球は環境破壊が進んで宇宙服を着て歩かないと肌が焼けて死ぬとか)までいろいろありました。
最近、全くそういう話を聞かなくなったのは、僕が夢のない大人になってしまったせいでしょうか。
ここ数年、耳にした新技術・新素材は、恥ずかしながら以下のようなものしかありません。
・有機EL
・カーボンナノチューブ
・燃料電池
・ナノマシン
・UWB
・WiMAX
・Flash Player 10(!?)
・次世代携帯電話
・量子ワープ
・セマンティックウェブ(最新?)
・Web2.0
・着用型ロボット
・家庭用ロボット
・ハイブリッドエンジン
・宇宙旅行
・ヘテロジニアスマルチコア
・メニーコア
なんか昔にくらべると異様に現実的なものしか見てないことに我ながら愕然とします。
要するに自分の視野が狭くなっているのです。
Web2.0が最新技術かというと、既存の技術の再定義なのでどちらかというと技術用語というより文化用語のような気がしてかなり疑問ですし、UWBもWiMAXも既に存在しているものなので、いまさらなにをという気もするのですが、本当に新しい話を聞かない。さらにインテルがマルチコア化に行ったり、nVidiaがCUDAで128コアのGPUをハイパフォーマンスコンピューティングに利用したりという話はあるものの、実際にそれが未来でどうなるのか、という具体像についてはあまり描けていないのが実情ではないでしょうか。
20年前に夢物語だったことはどんどん現実化し、確かに進化している部分は沢山あるのですが、反対に忘れられつつあることも沢山あって、たとえば常温核融合とか、超伝導とか、最近あまり話題に登らないのは、ダメだったという結論になってしまったか、知らないうちに実現していたか既に諦めたかのどちらかなのかもしれません。
とにかく、昔にくらべると圧倒的に夢がない。世間というより僕が。
3年先くらいのことは想像できますが、5年先となるとぼやけてしまう。
もっと言えば、10年後なんて想像もつかない。
なぜかというと、未来の共通認識がないからです。
例えば僕より20歳くらい上の世代になると、「2001年宇宙の旅」を見て理系に進んだ人というのが沢山います。
「2001年宇宙の旅」は、映画としてはとっても眠くなる映画だし、テーマも重すぎてわけがわからない。けれども絶大な支持を集めた映画なんです。
これは、IBMを初めとする当時の世界を代表する企業の科学者達が、「2001年の宇宙の旅」というものをできるだけ性格に予想し、「未来はこうなる」という強烈な図式を示したことが、不思議なリアリティに繋がり、とても説得力を持って観客に訴えかけたのだと思います。
それで、SFというのは、現実を追い越してしまった。
2001年宇宙の旅で描かれるような有人木星探査はいまのところ夢のまた夢です。
HAL-9000のような高度な人工知能はやっぱり夢のまた夢です。HAL-9000は設定によると1992年に生まれることになっています。
映画「2001年」は、あくまでも60年代の未来観であったのです。
1968年に映画が公開された頃は、30年後には当たり前のように宇宙を旅しているだろう、という予想のもとでこの映画が作られたわけですが、現実にはもっと退屈な30年間でした。
1968年といえば、日本ではテレビの全国のカラー放送化がちょうど終わった年で、それから40年近い月日が流れているにもかかわらず、科学的に派手な進歩は少なく、町並みは大きく様変わりしましたが、とはいえクルマが空を飛ぶほどには変わっていないわけです。
これは、攻殻機動隊の描く未来の2030年の世界で空飛ぶクルマはなくなってしまった話と微妙にシンクロするかもしれませんが、とにかく「世の中はもっと静かにゆっくりと変化していく」という感覚が生まれていったことは非常に面白いことです。
それと、特に日本がそうですが、圧倒的にSFの新作が少なくなっているような気がします。
Wikipediaの説明を見ると、SFは1980年代のポストサイバーパンクでとぎれています。
セカンドライフの元ネタとして知られ、かなり新鮮に映るニール・スティーヴンスンの「スノウ・クラッシュ」ですら、1992年の作品ですから、実に16年前です。
既に80年代には「あと20年しかないし、どうやらクルマは空を飛んでくれないらしい」というある意味で悲観的な世界観の変化があって、宇宙からネットワークへとその舞台を移した。ところがそのネットワークへと舞台を移すと、とたんに作品の数が減るのです。
「宇宙もの」というSFのジャンルで探すと、「スターウルフ」「宇宙のスカイラーク」「レンズマン」「宇宙英雄ペリー・ローダン」などなど、沢山の名シリーズが出てきます。
しかし、サイバーパンクもので有名なシリーズといえば、わずかに「ニューロマンサー」「クローム襲撃」「モナリザ・オーヴァドライブ」の「スプロール三部作」があるのみ。
いや、他にもあるのかもしれないし、僕も別にSFマガジンを毎月読むほどの熱心なSF者ではないから、隠れた名シリーズがあるのかもしれない(ああ、たとえばミルキーピア物語とか)けど、それでも昔にくらべて圧倒的に減ってしまったな、と。
「敵は海賊」シリーズは微妙にサイバーパンクっぽい要素は入っていたし、「戦闘要請雪風」はサイバーパンクではないけれども、コンピュータ間の通信の描写が実に細かかった。
2003年発表の「マルドゥック・スクランブル」も面白いけど、もうSFというより魔法モノみたいになってるし(事実、進歩した科学は魔法と区別が付かないわけだ)、これが未来だとはあまり思えない。
マルドゥック・スクランブル―The First Compression 圧縮 (ハヤカワ文庫JA)
- 作者: 冲方 丁
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2003/05
- メディア: 文庫
ではどうしてこうなっているのか。
ひとつには、昔と違って、科学者が小説を書いていないのではないか、または科学者がそもそもSFと呼ばれる作品の中でどんどん出てこなくなっているのではないか、という気がするわけです。
特にアシモフはコロンビア大学の博士号を持っているし、そうした知見の鋭さなどが明らかに作品性に反映されていた一方で、「アシモフの科学エッセイ」と称した科学紹介もしていますし、ルーディ・ラッカーも数学者で人工知能の研究者です。
SFであるからには、科学的根拠(らしきもの)に根ざした未来予想というのもひとつの作品性だと思うのですが、これを達成するには要するに本当に科学者でなければいけないわけです。
少なくとも科学技術をある程度知っていて、その発展の可能性をさらに見極めないといけない。
良くも悪くも今は人類の進歩の踊り場に来てるような肌感覚があります。
科学技術の進歩の踊り場であっても、代わりに文化や経済が発達しますから、それはそれで大いにやっていただきたいわけですが、科学技術に関わる者として、この状況はいかんともしがたく、実にもどかしいわけです。
攻殻機動隊によって描かれる未来は、ディストピアのようなユートピアで、マトリックスで描かれるのは一見ユートピアに見えるにディストピア。
昔からSFも、ホラーSFと明るいSFの二種類が交互に流行したので、そろそろ明るいSFが読みたい。
でもいつまでたってもそれが出てこないので、自分で未来のネタを探しに行こうと思います。
このブログの読者の方のなかで、「これは未来だ」「未来はこうなる!」「こうなって欲しい」と思っていらっしゃる方、お気軽にトラバかメール下さい。info @ uei.co.jpまで。
2008-03-05 09:38
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