僕は本当のアメリカをなにひとつ知りはしなかった
朝4時に起きてDeath Valleyに行ってきました。
Death Valley、死の渓谷という名前がついているだけあって、見渡す限り砂漠。
しかし、途方もないくらいの広さに圧倒されました。
ラスベガスからクルマで2時間。ひたすらまっすぐインターステート15号を北へ進んで、ようやくたどり着くとそこは文字通り別世界でした。
Death Valleyにはいろいろな場所があるのですが、今回行ったのは砂の砂漠。
さらさらしたパウダー状の砂が積もった美しい場所でした。
ふつう、日本の観光地ではこういうところは紐なんかがひっぱってあって「立ち入り禁止」とか書かれているものですが、Death Valleyは単なる砂漠。というかアメリカ全体がそもそも単なる砂漠や単なる森の占める面積が大きいので、どこへいってもこんなもんだ、ということでした。
砂漠に風紋ができていて、そこを自分の足で踏みしめていくと、大自然と自分が一体に溶け込んだような、母なる大地に抱かれたような、不思議な充足感で満たされます。
こんなところを馬一匹で開拓しようとしたカウボーイ達を突き動かしていた者はいったいなんなのでしょうか。
水口さんの導きで旅をしてみて、いろいろとそれまでの自分にはなかった認識が芽生えてきました。
水口さんは大学の卒業旅行として、レンタカーを借りてアメリカ大陸を一ヶ月で一周する旅に出たそうです。
「ほとんど人が住んでないけど、同じ景色は二つとしてない…」
水口さんはアメリカ大陸をそう評しました。大学時代にこの景色を知っているかそうでないかの差はでかい。この景色は少なくとも僕の世の中に対する認識をかなり変えることになりました。
Web2.0とか心底バカバカしくなってくる。
人間とはなんてちっぽけな存在なんだろうと、大自然の雄大さ、ただただ雄大であるということに圧倒されます。
僕が知っているアメリカは、サンフランシスコであり、ロスアンゼルスであり、シアトルであったわけですが、それはごくごく一部の話で、アメリカという国の大半は、こうした膨大な荒野と砂漠によって成り立っている訳です。
こんな砂漠のど真ん中に町を作る人もいれば、ひたすら海を目指して西進したカウボーイも居て、アメリカという国は巨大な点と線とによって成り立っているのだということに今更ながら驚かされます。
こういう国ならば、そりゃ月に上陸しようとするわな、という気持ちがようやく解ってきました。
町としての点と、街道としての線、という組み合わせは、たとえば銀河系にも通じるものがあります。
スタートレックやスターウォーズのようなスペースオペラが当たり前のように受け入れられる事情というのは、こういう風土にあるのかもしれません。なんというか、凄く、似てるのです。
同じような景色のところをひたすらまっすぐ進んでいって次なる町を目指す、というスタイルそのものが、まさにスタートレックでありスターウォーズに近い感覚です。
僕はクルマで巡っただけですが、たぶんカウボーイが馬で行き来していた頃は、同じ道程を歩むのに優に数ヶ月は必要としたでしょう。
そういう時間感覚は、宇宙のそれに近いものがあります。
地面をクルマで走るのに比べると、飛行機でいきなり目的地に降り立ってしまうのは、少々勿体ないというか、まるでワープしているようです。
Death Valleyで本当に驚いたのは、景色がめまぐるしく変わることです。
右と左で景色が違い、尾根をひとつ超えるとまた景色が変わる。
どちらにせよとにかくひたすらに広い。圧倒的に広い。
「まるでドラゴンボールみたいだ…」
「清水はマンガと映画しか連想するものがないのか」
「まあそうですね」
「考えるんじゃない。感じるんだよ」
「ブルース・リーですか」
「・・・・」
冒険とは、まさにこういうことを言うのだな、と思いました。
ロールプレイングゲームが開発され、受け入れられる土壌というのも、要するにこういうひたすらに広大な空間がごく身近にあって、イメージがしやすい。
ラグナロクオンラインと、エヴァークエストの最大の違いは、密度です。
ラグナロクはひとつひとつのマップやエリアが適度にコンパクトで遊びやすいのですが、エヴァークエストはひたすら荒野です。韓国とアメリカという風土の違いが、もしかすると関係しているのかもしれません。
山の向こうの方なんか霞んで見えなくなっている。だがそれがいいワケです。こうなるともう次元が違う。
Death Valleyの周辺というのは、まさしくエヴァークエストの世界です。
僕の目には荒野にモンスターが暴れる姿がありありとイメージされました。
ああこれか、これなんだ、と。
しかも、山はどんなテレビゲームよりも表情豊かです。
文字通り、二度と同じ景色がない。
山の成り立ち方、その形、植物の生え方、種類、石、岩の形、それぞれ、あっという間、みるみるめまぐるしく変わっていきます。
そこに通るのはひたすらインターステート(州間道路)。いわゆるフリーウェイの中でも最大規模のものをインターステートと呼ぶのです。総延長は何万キロになるんだろう。とにかくこういう道が通っていること、それ自体が凄い。
「インターステートを整備したのは、アル・ゴアのお父さんなんだよ」
ふと水口さんが言いました。
「それで息子は、情報スーパーハイウェイ、つまりインターネットを整備したわけ。親子二代でそういう仕事をしてるわけだ」
でかい。
とてつもなくでかい話だ。
そして確かに点と線のモデルは、インターネットにおけるノードと回線、WWWにおけるページとリンクの構造であって、こういうメンタルモデルをアメリカ人は共通して持っているのかもしれません。だからヨーロッパで発明されたWWWも、アメリカで爆発的に普及した、と。
いままで不思議だと思っていた疑問のいくつかが、この雄大な景色を見て氷解したような気がしました。
Death Valleyという名前とは裏腹に、見れば見るほど生きる勇気が湧いてくるような凄いところです。
「ここって、アメリカ人にとっては華厳の滝みたいなものなんですか?」
「いや、そんなメジャーな観光地じゃないよ。どっちかっていうと、富士の樹海じゃないかな。有名だけど、普通の神経なら誰も行かない…」
この雄大さをカメラに収めるのは文字通り至難を極め、Death Valleyのもつ雄大さの1万分の1も写し取れないのは実に残念です。
なるべく若いうちにDeath Valleyを見ておくのがいいと思います。
これは人のスケールを大きくするわ。
こんな何もないところをひたすら突き進んだというだけで、アメリカ人は賞賛に値すると思います。
そして都会というのはなんとセセコマしい場所なんだと。本当の田舎とはこういう場所なんだと思いました。僕の実家なんか、ぜんぜん都会だった。住宅地だし。
日本にもきっと似たような場所があるのかもしれません。たとえば北海道とか。行ってみたい。
もちろん都会には都会ならではの魅力はあるのですが、都会しか知らないというのと、都会も知っているというのとでは、やはり感性の幅として限界が低かったように思います。都会にしか興味がなくて、だからやれサンフランシスコだロスアンゼルスだサンディエゴだと行っていたわけですが、こういうアメリカが、大部分のアメリカで、アメリカ人はこういう原風景をメンタリティとして持っているんだなと。それを抜きにしてこの国の文化は到底理解できないと思いました。
ハンバーガー、フランチャイズ、インターネット、冷凍食品、ショッピングモール…そういうものが必要であるという、文化背景の全てが、要するにただただこの広大な荒野の中で人々が逞しく生きていくための手段であるように感じます。全てのことには理由があるわけで。
そういう世界を僕はもっと知るべきだと思いました。
それにしても、朝からいい経験をさせてもらったなあ。
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