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タイムマシンなんかいらない


夜、銀座のワインバーでどこかのイタリアワインをマスターの解説付きでじっくり楽しんでいたら、友達から電話が掛かってきて、飲みに誘われた。




タクシーで移動して麻布のダイニングバーで彼らと合流すると、思いがけず、ずっと昔に片思いして振られた相手が同席していた。しかも二人。




なぜ同席しているのかは不明。誰かの知り合いのなのか、そもそも誰かの彼女なのか、それすらもわからない。




僕がどんな振りをしても、ことごとくスルーされ、それはもうマラドーナのような華麗なスルー力でスルーされ、まるで僕なんか存在していないかのように扱われる。




ふと気がつくと、ダイニングバーの白い壁はいつのまにか消えていて、彼女たちはそれぞれてんでな方角で、知らない男とそれぞれ二人きりで雑談に興じている。




なんだよ、来なけりゃ良かったな。




と、残念な気分になったところで目が覚めました。

どれだけひどい夢でしょうか。




過去の、もはやどうにもならないことに関してつらい現実を突きつけられる夢って、もうつらいとしか言いようが無いわけで、そのうえ、仮にタイムマシンがあったら過去のある時点まで戻って歴史を修正したい・・・・と思っても、修正すべき場所がありませんからね。




バック・トゥ・ザ・フューチャーの絶妙なところは、自分がどんなにオロオロしていても、ヤリ手でカッコ良くて機転の効く未来からやってきた息子が恋のABCを手ほどきして冴えない親父を助けてくれるということで、バブルへGoの巧妙なギミックも、未来から来た娘が大暴れして結局父親と寄りを戻す、という、いわば他力本願的なところがいいわけで、実際のところ、僕がよほどのヘマを続けない限り僕の孫が猫型ロボットを過去の僕に送り込むことは無さそうですし、それにしたってみんながそれをやれるような世の中になっちゃったら大変ですよ。




 「おじいちゃんが静香ちゃんと結婚できなかったから、のび家はボロボロだ」




みたいなことを小学生の孫にしたり顔で言われ、だからこの猫型ロボットと22世紀テクノロジー(デパートで買える)でもってもっといい女と結婚しろと、そしたら遺伝学的にも意味論的にも当の孫は存在しなくなっちゃうんじゃないの?それとも養子なの?とこの時点で微妙にタイムパラドックスが起きるわけですが、ところが猫型ロボットはまるで役に立たず、毎日どら焼きを消費し、押し入れを占有し、じいさんの少年時代のささやかな欲望を姑息に満たし続ける以上の役には立たないというポンコツぶり。結局最終回ではじいさんその人が自立するしかなかったという、じゃあそもそも猫型ロボットの存在意義って?




そのせいでじいさんはろくな友達をつくる努力もしなくなっている。明らかにスネ夫やジャイアンとつきあうよりも、出来杉と仲良くなっておいた方がなにかと将来役に立ちそうだ。なのにのび太と来たら出来杉と静香ちゃんの仲に嫉妬して猫型ロボットに当たり散らし、しょうもない道具を使って矮小なプライドを満足させる。そういうときののび太は最高に格好悪いわけで。




話が大きく脱線しましたが、要するに過去は変えられない。変える必要が無いのかもしれませんし、変えても誰も幸せにならない。人間が社会を作っていく以上、ちょっとやそっと変わったくらいで未来に影響なんてないし、ましてや過去の時点の自分ではなく相手の恋愛感情を変えるなんていうことが、できるはずはないのです。




ましてや未来のテクノロジーの力を借りてモテるなんて、まず無理。

だから過去へ行くタイムマシンなんていらないのです。




じゃあ過去ではなくて未来なら?

もし仮にですよ、僕が未来の世界を見てしまったら、もう完全にやる気を無くすでしょうね。

僕が自分の手で発明したいもの、作り出したい物は全てそこにあるわけですよ。そうしたら現代に戻りたいとか露程も思わないでしょうね。僕は未来に住む。間違いなく住む。




それで、「そうか、これが出来るということはあれもできるのか!」と考えて実行に移す前にタイムマシンのダイヤルを調整すると、もう既にそれが一度市場に試され、ある程度は広まり、そして廃れていった未来、みたいなものになってて、そこでまた別のことを考えだしてもやはりダイアルを回すだけでその結果が解ってしまう。つまらない。死ぬほどつまらない。




僕は未来は知りたくない。わくわくするような未来を自分の手で作り出したい。未来社会に希望を感じる人って、理系か、科学指向の人が多いような気がするのですが、そういう人であればあるほど、未来社会の「答え」を知ってしまったらつまらないですよね。けれども死ぬ直前には知りたいかもしれません。自分の考えたことはどう活かされるのか、活かされないのか。




まあ未来について知るということでいえば、現時点で明らかになっている情報を整理して、ある程度以上の憶測や希望的観測を入れつつ、「きっとこうなるはずだ!」と予想して自分はその予想を信じてひたすら目の前の仕事に邁進する。そんな程度のつきあい方が一番面白いわけで。




そんなわけで、当代一の哲学者、東浩紀氏とベッドシーンの描けない清純派ライトノベル作家、桜坂洋氏、そしてなぜか僕の一年間にわたる放談をベースにした「2045年版週刊アスキー」が綴じ込み付録となっている週刊アスキー10周年記念号。いつもより数倍の厚みでなんとびっくり特別定価420円。




東さんのブログでの紹介

終わったはずの連載ページでの桜坂さんのコメント




往年のAh!SKI的なパロディニュースあり、よくわからないGPWクロスレビューありのページ構成で、週アス編集部もよくぞここまで考えたな、という感じです。ちなみに内容に関して我々三人はほとんど関与していません。それが凄い。




確かに「2045年の週刊アスキーをつくる」という連載だったけど、まさか本当に本が出るとはなあ。




なんど「この連載、いつ本を作るんですか?」と編集部に突っ込みをいれたことか。




直前になって怒濤の作業量をこなしていたみたいですからね。

さすが週刊誌つくってる編集部は仕事が早いぜ、と思ったり思わなかったり。




むしろ「これって一ヶ月くらいで終わってよかった企画では・・・?」という疑問が若干湧かなくもないですが、これを40年後に見て笑い飛ばすのがいまから楽しみです。




本編の方も無事出版されますように。




そして40年後にタイムマシンが発明されたとしても、2045年の僕が予想のあまりの外れっぷりに頭にきて本書の内容を修正するために猫型ロボットを送り込んでくるかと思ってこの一年間は机の引き出しを開けるたびにビクビクしていたのですが、無事連載も終わり、猫型ロボットの核融合炉に恐れを抱くということもなく、これから40年立派にお勤めを果たしたいと思います。


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